2010年11月29日月曜日

今日も雪。

雪のソー公園。運河に浮かんでいるのはカモメ。

















月曜日は太極拳の自主練習の日なので、ソー公園に行きました。昨夜降った雪がうっすらと積もって、気温は-1℃。

ここが、いつも太極拳の練習をする白い桜の園。





















空気は冷たいけれど、動いていると身体が温まって、いい気持でした。(由)

2010年11月26日金曜日

初雪だ。キウイの収穫。

リンゴじゃありません。キウイです。


















寒いけれど晴天なので、宏爾とパリで昼ごはんを食べて、HCB(Fondation Henri Cartier-Bresson)でハリー・カラハン展を見て、久しぶりに散歩気分になっていたら、一天にわかにかき曇り、雪が降り始めた。この冬初めての雪。慌てて散歩を中断、家に飛んで帰る。
ウチの庭にはキウイの木があって、今年は今までにないほどたくさん実がなっているのだ。できるだけ長く枝で熟れさせて収穫するといいのだけれど、気温が下がって凍ってしまったらオシマイ。この季節は毎日、天気予報とにらめっこになる。ノエル直前までがんばりたかったけど、やむを得ない。お出かけの服を泥んこOKの庭装束に着替えて、帽子もかぶって、手袋をして、夕闇のなかキウイ摘みに出陣。
雪を戴いたキウイを摘んでいると、あっという間に手袋はびしょびしょ。手の感覚が無くなってくる。それにしても、今年のキウイはなんて大量! 暗くなるまで採って、やっと作業終了したけれど、どうも10kg以上はありそう。
ジャガイモじゃありません。キウイです。















まだ堅くて、暖かいところで追熟させないと食べられないので、屋根裏の板の棚に広げて置きました。食べられるまで1カ月くらいかかりそうだけれど、おいしいのだよ、ウチのキウイは。朝ごはんが楽しみ、楽しみ。(由)

2010年11月23日火曜日

自然史博物館と勝井三雄さん。

グランド・ギャルリ。絶滅の危機にある動物の展示室

















グルノーブル郊外エシロルでのグラフィック月間20周年記念で開催中の“勝井三雄のアトリエ”展のために勝井夫妻が来仏。グルノーブルに向かう前日には、プチ・パレとケ・ブランリ美術館、それにル・コルビュジエのロシュ邸に案内した。
現地での行事を終えた22日、再び朝からパリ探訪へ。
勝井さんが見たかったゴブラン織製作所は残念ながら休館日。でもせめて建物だけでもということで、とりあえず7号線でゴブランへ。裏手の通りの古い建物の窓越しに、大きな織り機で作業しているようすだけ覗いて、なんとか納得していただく。
次は、完成した直後に見たグランド・ギャルリを、ということで植物園へ。でも「照明や音響がもっと劇的だったなぁ、後で置かれた解説用モニタが目立ちすぎるし、あの時の感動はないなぁ」と。うーん、確かにそうかも。でも当時は照明が暗すぎて小さな字の解説がまるで読めなかったんだよね。
で、続いて恐竜やクジラの骨が並ぶ古生物展示館へ。ここは昔ながらの博物館という雰囲気がいっぱいで、個人的にはグランド・ギャルリより好きな場所。勝井さんもすっかり気に入って、写真を撮りながら化石の並ぶ2階も3階もくまなく見て回る。
クジラの骨と80近いけど元気いっぱいの勝井さん。

















午後はクリュニー中世美術館で『一角獣と貴婦人』を見て、さらにポンピドゥ・センターへ回り、展示替えされた近代美術館をゆっくり見て回った。
明日はユーロスターでロンドンへというお二人。なんと今日が結婚ウン年記念日だったということで、沙子さんご所望の牡蠣と白ワインで乾杯。ほんとにいつも変らずボン・サンテの勝井さんでした。(宏)

2010年11月21日日曜日

ナンテールの病院で小曽根真さんのピアノ。


日本文化会館で広報の仕事をしている綾さんから、ナンテールの病院で小曽根さんが無料コンサート、外部の人も聴けるから早めに、という知らせ。これはとにかく行かねば、とナンテール・ヴィルへ。駅からのバスは、殺風景とはこういう風景か、という地区を抜け、古い病院の前に着く。ここは昔から、住む家のない人々も受け入れるフランス唯一の施設で、会場は長い長い渡り廊下を歩いた先だという。木造の廊下の天井は白地に赤のペイント。壁には大胆なグラフィックパターンのパネルが並んでいる
何て長い廊下。ナンテールの病院は19世紀末の建築。

















で、何人かの人に訊ねてたどり着いた会場は、養老院棟の食堂だった。開演の14時30分が近づくと患者さんやお年寄りが続々と集まって来る。車椅子の人も多い。窓の外には病院付属のノラネコさんも聴きに来ている。

右にいるのもネコです。まんとひひだなんていわないで。







  








翌20日にはサル・ガヴォーで6人のピアニストによる演奏会があるという小曽根さんは、この無料コンサートのため空港から直行してきたという。広い食堂の中央に置かれたピアノを、何が始まるのかと興味深げな目が遠巻きにしている。
オリジナルからスタンダードのジャズ、小曽根さんがジャズピアノを弾くきっかけになったという『枯葉』、それにこないだスコダがアンコールで弾いたショパンの『プレリュード第4番』…最初は小曽根さんのピアノになんとなく反応の乏しかった人たちだけれど、「ボクが小さかったころ、父が弾いていたのを憶えている曲です。でも間違えたらごめんなさい。弾くのは40年振りだから」と前置きしたピアフの『バラ色の人生』が始まると、ピアノの脇にいた車いすの老人が小さな声で歌い始めた。それに向かいの老人がしっかりした声で唱和する。そして、ついには食堂全体がひとつになっての大合唱になっていた・・・。
予定の1時間をはるかに超える演奏が終ると、ピアノの周りには、小曽根さんに「メルシー」を言いに来る人がいっぱい。
小曽根さん(綾さんも)ほんとにありがとう!
なんていい音楽会。食堂には150人もの人たちが来ていた。















小曽根さんは、サル・ガヴォーのコンサートの翌日にはポーランドへ。でも、来年の4月5日にはクレルモン・フェランでオーヴェルニュ管弦楽団との共演。夏には、プロヴァンスのLa Roque d'Antheron国際ピアノ・フェスティヴァルに、井上道義さんが率いるオーケストラ・アンサンブル金沢とともにやってくる予定です。(宏)





2010年11月15日月曜日

10ユーロでバドゥラ=スコダ聴いた!















フランスに来てから、映画と展覧会には気軽に出かけるけど、コンサートにはあまり行ったことがない。席を予約するのもよくわからなくて面倒だし、だいいち値段が高いよ。
と思っていたけど、一昨日、17区のSalle Pleyelっていうところで、なぜか本格的にクラシックのコンサートを鑑賞しました。知り合いの知り合い(馬場法子さんという方です。私はまだお会いしたことがないけど)の曲を初演するというので、夫と「それじゃ、行こうか」。
ネットの前売りはソルド・アウトみたいだったので、当日券売り場に並んだら3階バルコンの2席がすぐ手に入った。10ユーロで、舞台全体がよく見渡せるし、前後左右の席から離れていてのびのび座れる、ラッキー。83才のバドゥラ=スコダがベートーヴェンのピアノコンツェルト4番を弾く、というのが目玉だったみたいで、観客の平均年齢が異常に高かった。貸し切りバスで到着のお年寄り団体がいたのは、もしかしてファンクラブ? でも初めて入ったサル・プレイエルは、改装して間もないということで、上品なアールデコ建築がとても美しかった。
10ユーロの席でもじゅうぶん楽しめる、ということがわかったし、それに28歳以下と65歳以上は開演30分前以降、空いている席を10ユーロで購入できる、というシステムもあることを発見。私も来年はこの特典を享受できるのです。あはは。ちなみに、宏爾さんはもうとっくに資格があるんだよ。フランスは年寄りには住みやすい国だ。
この10ユーロのコンサート体験、なかなか楽しく演奏もよくて,今後ハマりそうな気がしました。だけどひとつだけ興ざめだったのは、観客の緊張が足りないのか、みんな演奏中に平気で咳をする。フランス人って自分勝手? それとも年寄りが多いせいかなー。(由)

にほんのにくふらんすのにく。

ふらんすではぎゅうにくのもとがそのへんを歩いてます。

















先週水曜の深夜、初めての羽田空港でフライト前のカキフライ、機内ではビミョーな赤ワインにビミョーな蒸しパンなどを食べて、濡れ落ち葉に埋もれたわが家へ着いたのが木曜の朝8時過ぎ。で、由紀子が「朝市行くけど何食べたい?」答えはもちろん「肉!できれば羊か鴨」。
東京でも、近所の肉屋田中の揚げたてトンカツも塚原くんちのすき焼きも上石神井の韓国家庭料理屋のホルモンももちろんおいしかった。だけどやっぱり日本では魚がいい。日本の肉でとくにダメなのがあの箸でも切れるという高級霜降り牛肉で、あんな気持ち悪いの肉じゃない。

で、由紀子が買って来て夕食に焼いてくれたのが仔羊の股肉ジゴ・ダニョー。よく切れる肉用ナイフを入れると、ほんのり桜色の残るなんともいい焼き加減・・・。これと皮が硬く弾力があってちぎると筋が立つ正しいバゲット、そして常備の赤で、「帰って来たー」となりました。 
さらに金曜は、翌日ドイツへ行くというコロリも招んで鴨のロースト。土曜は細木・暁子組といっしょにサル・プレイエルでの音楽会の後、14区の定食屋で牛のプロヴァンス風煮込み。そろそろいいかと思うけど、フランスのくにはにくのくに、なのです。(宏)

2010年11月2日火曜日

パリの本3冊。

◉FIgaro japon/2009年11月掲載記事の再録。
パリの文化は異邦人(エトランジェ)の存在抜きには語れない。他所者(エトランジェ)としてパリに生きた人々を通して、パリを読み、そして自らを考える……。
 
ねむれ巴里 金子光晴 中公文庫
光晴の自伝三部作のうち、妻・森三千代との2年間を描いたまさに壮絶な巴里滞在記である。労働許可証を持たず金になることなら何でもやる光晴の、底辺に生きる人々への共感から生まれた文明批評は悲しく鋭い。
「タクシーはおろか、メトロにも乗らず、パリのすみずみまで、二本の足で放つき歩くことは、しんどいことではあるが、たのしいことでもある。」という光晴のパリは、今もあまり変わっていないのかもしれない。夫妻が暮らしたダゲール街22番地の安ホテルも現存している。

〈パリ写真〉の世紀 今橋映子 白水社 
アジェ、ドアノー、カルティエ=ブレッソン。パリほど多くの写真家に撮られた都市はない。「写真と文学」を中心テーマに、20世紀パリのイパリ・イメージの形成に重要な役割を持つという指摘はとりわけ興味深い。論理展開の強引さと、ウイリー・ロニスをロニと表記するなど、気になる点も散見するが、膨大な資料を駆使して語る著者の情熱とエネルギーに脱帽する。

パリからの手紙 堀内誠一 日本エディタースクール出版部
絵本作家・堀内誠一は雑誌のアート・ディレクターとして、また家族ぐるみパリ郊外に住んだ先輩として、わが生き方の手本とも言える人。彼は文でも絵でも、見たこと考えたこと感動したことを他人に伝えることの天才だった。その堀内さんがパリ滞在中の70年代に、岸田衿子、澁澤龍彦、谷川俊太郎、出口裕弘ら友人たちに宛てた絵入りの手紙集。パリから送られたアエログラムという薄くて青い航空便は、受け取った誰もが大切に保存する宝モノとなった。(宏)

2010年11月1日月曜日

ダゲール街の浜辺。

 ◉遊歩人/おぢさんのためのぶらり巴里案内掲載記事の再録/2009年9月

 14区のダンフェール・ロシュロー広場の脇から西へ伸びるダゲール通りは、八百屋や肉屋、魚屋、チーズ屋などが店先に屋台を並べる賑やかな商店街です。
630 メートルほどの長さの通りに、パン屋やワイン屋はそれぞれ五、六軒づつある。カフェやレストランは数えきれない。それなりに知られた店もあるけれど、観光 客がわざわざ行くような街ではない。どこも日常的で値段もそんなに高くないので、誰かに呼ばれたときに立ち寄ってワインを買ったり、モンパルナスで映画を 観た後にカフェでひと休みしたりする。















だいぶ前のこと、たまには家族でメシを食おうということになって、この通りの奥のほうにあるビストロに向かった。ところが、その店の手前の角から、道路一面が砂場状態になっている。砂の上には大きな反射板や照明用のライト、レールに据えられた撮影カメラ……映画のロケらしい。
通行人は道の両脇の隙間を歩いている。見物人もちらほら。砂の上を若い人が動き回っているけれど、なんとなくのんびりムードの撮影現場です。 
目指すビストロの斜め向かい88番地には、映画監督アニエス・ヴァルダの自宅兼仕事場がある。低い建物の壁や窓枠がエンジと紫で塗られ、扉はそれに黄緑が加わった奇妙な三色シマシマ模様。
独特の手法でユニークな視点の映画を作る彼女は、前にも商店街の人たちを撮った『ダゲール街の人々(原題ダゲレオタイプ)』を発表している。この砂場もやはり彼女の新作の撮影だった。
前にも2、3度見かけたけれど、目の前にいる黒髪のおかっぱ頭の女性がそのアニエスで、野次馬のわれわれに、にっこり「ボンソワール」と挨拶してくれる。少ししゃがれた低い声。クリクリした目玉の、じつに気取らないおばあさんです。

















さて、このダゲール通りとボクの付き合いのきっかけは、金子光晴の『ねむれ巴里』(中公文庫)だった。1929年の暮れにパリに来た光晴が、翌年からほぼ二年間にわたるパリ滞在の大半を、夫人、森三千代との過ごしたのがこの通りの22番地なのだ。それがどんなところかを確かめに歩いたのが始まりで、どの店もエラそうじゃないのが気に入って、今はパリでもいちばん安心できるなじみの街になっている。
22番地には「リオンソー」というホテルがあって、シャワー付き一泊550ユーロ。今のパリでは最も安い部類です。当時は長期滞在用の半分下宿屋のようなホテルが多く、ここもそういう宿だった。
『ねむれ巴里』を読むと、びんぼう暮らしを標榜しているボクなんかじつはまるで優雅なものだと思わざるを得ない、凄まじい日々の記録である。
光晴夫妻と入れ違いで1931年の末には、林芙美子がこの街にやって来る。彼女が落ち着いたのは、光晴の宿のすぐ先を曲がったブーラール通り10番地。  
翌年、数ヶ月をロンドンで過ごした後に、芙美子は「やっぱり前の古巣に帰りました。ただし街は同じでも宿は違います。」(『下駄で歩いた巴里』岩波文庫)と、ダンフェール・ロシュロー広場に面したホテル「フロリドル」に部屋を取っている。ここも現存する1ツ星ホテルで、ヴァルター・ベンヤミンが一時滞在していたという。その後芙美子は、ダゲール通り22番地、光晴夫妻のいた宿にも移っている。「階下が酒屋さん、左隣が毛皮屋、右隣がパン屋、お向こうが馬肉屋、私の部屋の窓から金色の馬の首の看板が馬肉屋の軒に出ているのがよく見える。」階下の酒屋はカフェに、毛皮屋は小間物屋に変っているけれど、パン屋と馬の首の看板の馬肉屋はいまも健在です。

さて、出来上がったアニエス・ヴァルダの映画は、『浜辺のアニエス』という。ブリュッセル生まれのアニエスが、家族と行ったベルギーの海岸と、戦争で一家が避難した南仏セトの海辺での思い出をスタートに、実写映像と、映画や記録映像の断片、写真などのコラージュで、自身の生活と行動、映画との関わりを見つめ直した自伝映画だった。
ヌーヴェル・ヴァーグの同志だったゴダールやトリュフォー、家族や友人、漁師や近所の人たちとの交流の思い出が淡々と語られる。
『シェルブールの雨傘』で知られる夫ジャック・ドゥミの回想はさすがに泣かされる。彼の墓はダゲール通りのすぐ裏のモンパルナス墓地にあるのです。
ダゲール通りに敷かれた砂は、もう60年近くもここに住むアニエスが、ジャック・ドゥミとの共有空間だったこの場所を、思い出の浜辺になぞらえたもの。
映画では、このダゲールの浜辺のソファで語るアニエス、浜辺のオフィスで働く人たち、突然の雨にあわてて撤収するようす、などのシーンが見られる。
砂浜の無くなったダゲール通りは、今日もふつうの人々のふつうの街です。(宏)

芸術は爆発だ!の芸術家は「獣のような民俗学者」だった。

◉pen/2007年8月掲載記事の再録。
岡本太郎の見た日本 赤坂憲雄著

もう、ウン十年も昔のことだけれど、仲間数人と南青山の岡本太郎の家に、デザイン学生相手の講演を頼みに行った。    
機嫌よく迎えてくれたタロさんは、「ボクもイスをデザインしたばかりだ。ただし、座ることを拒否するイスだ。座ってみろ」という。そしてシリが痛くて座れない我々を見てうれしそうにいった。「デザインは心地よいものを作るのが目的だろうが、そんなものはツマラナイ。ボクは“いったい何だこれは!”と人がいうものを創るんだ」と。
話に熱が入るとアタマが沸騰したようになって、言葉のほうが追いつかず、もどかしげに目を剥いて話し続けるのだった。
岡本太郎は。一九二九年、18才でパリに渡り、四〇年に戦争のため帰国する。その間、カンディンスキー、モンドリアン、アルプ、ブルトン、ブラッサイ、キャパ、ツァラ、バタイユらと交遊し、30年代の先鋭的な前衛芸術活動を経験した。
さらに彼は、パリ大学のマルセル・モース教授のもとで民俗学を本格的に学んでいる。
戦後、岡本太郎は、龍安寺の石庭に代表される「日本の美」に背を向け、縄文土器こそ本来の日本人の根っこにあるものだという論を発表する。
この本は、その「縄文の発見」の後、東北や沖縄を旅しながら、日常の中に残っていたナマハゲだのイタコだのといった土俗的で力強い祭り・風習を探し歩いた岡本太郎の姿と、その考え方のモトは何だったのかを丹念に追ったもの。
縄文に通ずるものを求めた岡本太郎の旅は、トロカデロの人類博物館でアフリカやオセアニアの民族資料に感動した経験があってのものだった。
生前、かなりヘンなヤツとして扱われることも多かった岡本太郎は、まるで獣のような嗅覚を持つ、個性的な民俗学者であり、思想家だったのです。
「ピカソ亡き後、世界に残るただ一人の天才」を自称していたタロさん。もし戦争なんかなくて、そのままパリで活躍していたら、ほんとうにそうなっていたような気がする。これほど「日本」にこだわることもなく。(宏)