2011年2月28日月曜日

洗濯物を干す。

。昨日も今日も朝のうちきれいな青空が出て、わ! 春だ、と思ってしまいました。で、昨日は今年初めて、洗濯物を外に干したのです。
大風が吹くと、横転する恐れもある。

















ウチの物干しは、黒い鉄バイプを直方体に組んだもの。タオルやシーツもピッと真っすぐに干せるし、小物はMujiのハンガーに吊るす。日本の伝統的物干しよりちょっとスタイリッシュで、フランス人がダラーっと紐を張って干すのよりきちんと干せるから、すごく気に入っているのです。 このバニューの家に越したときから使っていて、青空を見上げながら干すのはすごく気持がいい。。
でも昨日はすぐに空が曇ってきたので、また室内に取り入れてしまいました。
気温はあい変わらず日中でも8℃前後とまだまだ寒い(おまけにウチの隣の工事現場でガス事故があってガスが止まり、暖房が使えない!)けれど、 庭の花たちはだんだん開き始めています。
この前撮影したサクラソウは、もうこんなに咲いている。


















ツルニチニチソウ(pervenche)の青色がすごく好き。


















玄関の横の木瓜は、まだ蕾だけど、今にも開きそう。


















これから水仙、ムスカリ、チューリップ、花ニラと百花繚乱になるのだけれど、私は明日から1月ほど日本なので、残念ながら今年の春は花の咲くのを見守れないんです。悔しいな。(由)

2011年2月19日土曜日

エネール美術館。

わざわざ出かけて行くほどのところが少ない17区だけれど、ジャン・ジャック・エネール美術館はどうしてなかなか、なのです。ワグラム広場のそばにある建物は、同時代の別の画家のアトリエだったものをエネールの遺族が買い取ったらしい。

『エロディアッド』1887年ごろ。ちょっと劇画っぽい。

















印象派前の人エネールが描いた絵は、今見るとちっとも古くない。
 入口脇のサロンにあるサロメの母のエロディアッドの絵も現代的でかっこいい。このサロンの窓辺や暖炉は、デルフトのタイルで覆われている。

国立の美術館だけど、訪れる人はほとんどえねー。

















エネールは地味だけれどギュスターヴ・モローなんかに比べると、はるかに上手です。

『夢』1896〜1900年。

















たいていの絵の輪郭がぼーっとにじんでいる。静謐な肖像画を中心に、神話を題材にしたハダカの絵、それに横たわるキリスト像などの大作もあるけれど、ローマ賞をもらってヴィラ・メデティスに滞在したころの模写や風景画もいい。

横長の絵が多い。裸の人もたいてい横長で、絵寝ーる。















若いころと年取ってからの写真があった。いい顔してるね。
                                              
年取ったほうはナダールが撮った




































落ち着いた3階建ての屋敷は空いてるし、こんなに近づいてにらめっこしても叱られません。

目の辺りが光ってしまった。ごめん。















近ごろはどの美術館も展覧会も、やたらに混んでることが多い。こういう有名じゃない小さなミュゼはかえって印象に残るものです。(宏)



2011年2月12日土曜日

おひさまがいっぱい。

昨日の午後、ロケット通りの現像所に行くのでバスティーユのメトロ地下道を出たら、こないだまでの寒さがウソのようにあったかくて、今まではタバコを吸う人しかいなかった広場のカフェのテラスが、早い春の陽を浴びるうれしそうな人でいっぱい。

地下道を抜けると春の国だった。
















現像が上がるまでの間、マレの画廊を回ることにして、スデーヌ通りを通ったら、ここのカフェも‥‥。

バスティーユにしては上品なカフェ・ド・ランデュストリ。
















やたらにたくさんあるマレ地区北部のギャルリーのうち、細木さんのブログを参考にあちこち見て歩いたのだけど、里子とゆずの家の近くのカフェもやっぱり‥‥。

マレにしては地元っぽいラ・ペルル。
(後日追加)「ここ夜はギョーカイ人のたまり場だよ」と
里子に指摘された。なるほど、
酔っぱらったガリアーノのトラブルの場がここでした。



















で、現像所でフィルムを受け取りバスティーユ広場に戻ると、すっかり斜めになった陽射しにもテラスはあいかわらずの満員。

















まだまだ寒い日があるんだろうな。とはいえずいぶん日が長くなりました。(宏)

2011年2月8日火曜日

春かな?

このところ珍しく忙しい日々が続いていて、ロクに庭にも出ない(由)でしたが、昨日は一日中太陽が輝いて、気温はなんと15℃。庭の芝生にはもうクロッカスが咲き始めました。
引越してきたときに球根を植えたら、毎年律儀に咲いてくれる。

















黄色と紫の2色だけ。

















これが咲くと、もうすぐ春なのです。(由)

2011年2月6日日曜日

美麗城的新年(ベルヴィルの旧正月)。

ちょっとだけ仕事があって久しぶりにベルヴィルへ行った。ピレネーの駅からベルヴィル通りの坂道をベルヴィル駅方向へ。
ピアフはこの建物入口の階段で生まれた、とある。
















エディット・ピアフが生まれた古びた建物の並びで1か所だけ写真を撮ったら仕事はおしまい。
大きなスシレストランが出来ていたり、まただいぶようすが変ったなぁと坂道を下る。Benの有名な大壁画の下の空き地の隅に、3層の立ちション防止装置を見つけた。

Benの下の立ち小便防止装置。なぜ3重なのかなぁ。

















と、いきなりバッバーン!、パンパンパパーン! という破裂音。何ごとかと人々が見ている方に行ってみたら‥‥。

黄色いグループの黄色と赤の獅子舞。















そう、2月3日が今年の中国の旧正月。中国系の食品店の前で爆竹とドラと太鼓にあわせてハデな獅子?が踊っている。6日の日曜にはベルヴィルも13区も、盛大なパレードが出ます。

低くて古い家並みが残るデノワイエ通りには中国系の店は少ない。建て替えられた新築の建物と、営業しているアフリカ・レストランなどほんの数軒以外の家はすべてふさがれていて、落書きアート通りになっている。
つまり間もなく建て替えで、つまらん通りになる。

















そこからベルヴィル大通りに出たら、角の建物も同様だった。この家の上部は、「へんな建物と読めない定食」(12月15日)に書いた、アレージアの建物と同じ目玉ウロコ装飾で覆われている。これも間もなく消えるんだな、きっと。

惜しいわけじゃないけど無くなるのは寂しいかも。

















ベルヴィル駅の前では、 中国ポップスのカラオケ大会。すぐウシロの中国雑貨店前に、また太鼓とドラのバンバン、ジャジャーン! に人だかり。

右の人、年末に酔っぱらいの喧嘩で話題になった人?















さっきの黄色グループとは別の、赤黒獅子舞年始隊でした。

はい、ありがとう。おめでとう。















‥‥でした。(宏)


2011年2月1日火曜日

ヌレエフとタルコフスキーの墓。

駅前から104番のバスで“PISCINE”下車。

















ウチに滞在中の花ちゃん(堀内花子さん)がヌレエフの墓を見に行くというので、その友人の三上さんも誘って、RER・C線のサント・ジュヌヴィエーヴ・デ・ボワへと出かけた。
町外れの木立につつまれた広い墓地には、約5200の墓に1万人を超えるロシア人が眠っている。これは墓地全体の6割強にもなるそう。
ロシア革命後に亡命してきて、パリでお嬢サマ教育学校を経営していた何とか公爵夫人が、1927年にロシア人亡命者のための養老院“メゾン・リュス”を開設、その後墓地の横にはロシア正教会も建てられて大盛況、この市営墓地が一気にロシア人墓地化したのです。

十字架と植木、フタなし、というのが本来の正教の墓。

















墓地の入口で 案内板を見ていたら、数人のグループを連れたおじさんが、よかったら一緒に、と声をかけてくれた。おかげで革命前後からのロシアとフランスの歴史や、正教の墓の様式などをベンキョーしながらの墓巡り。浮彫りのある木の十字架は、二本の横棒の下に斜めの棒もついた「八端十字架」。てっぺんに青いタマネギを載せたのもある。墓に白樺などの樹木を植えるのが習慣です。

ドン・コサック(カザーク)兵の墓。
















元がもとだから、ロマノフ王朝の関係者や白軍兵士の墓が多い。革命後は、ロシア構成主義の彫刻家ぺヴスナーや、ノーベル文学賞のブーニンなど、レーニン/スターリン体制から逃れて来た芸術家たち。

第二次大戦での戦死者たち。















 第二次世界大戦で、ロシア人部隊や外人部隊、それにレジスタンスとしてナチと戦った人たちの墓も多い。タクシー運転手組合の区画もある。かつてパリのタクシーはロシア人と決まっていたのです。

これがヌレエフの墓。赤いおじさんが案内してくれた。











バレーシューズが捧げられていた。





















ヌレエフの墓は、ド派手なモザイク製の絨毯で覆われている。ヌレエフ以外にもオペラ座バレエのダンサーがたくさん。ヌレエフの前に芸術監督だったリファール、ヌレエフとも踊ったエトワールのニーナ・ヴィルボヴァ ‥‥。
タルコフスキー夫妻の墓。
 














ここの人気者はもうひとり『惑星ソラリス』の監督アンドレイ・タルコフスキー。意地を張って帰国しなかった彼は、ここに埋葬するよう希望したらしい。小さな捧げものがいくつも置かれています。

夕方どんどん冷え込んで、ほんとにロシアに来たみたい。バス停前の“Centre Nautique” に逃げ込んで、泳ぐ人を眺めながらすっかり固まった身体を温めました。(宏)