2014年11月24日月曜日

仏子のアミーゴ、渡辺嘉子展。


クラフト作家・渡辺嘉子展が、埼玉県入間市の市民文化施設で開かれている。西武池袋線仏子(ぶし)駅から数分、会場のアトリエ・アミーゴは、1998年まで県の繊維試験場だった。使われなくなった7棟の建物をアトリエとして再利用。入り口の本部棟は昔の学校のよう。サロン棟というキッチン付きの建物が嘉子展の会場です。
天井の高い、落ち着いた“クリスマスを待つ部屋”
ひとつずつ開けて見るアドベント・カレンダー風の展示。
玉手箱。
渡辺嘉子展は28日まで。
1916年(大正5年)に建てられたという頑丈な木造の建物はレトロでいい感じ。染色や織物の施設も生かして使われている。
トイレと思ったらスタジオ棟。新建材の外装が残念。
織り機の残るホールで市民参加のオペラ公演をやっていた。
建物群の奥は公園です。
公園の裏手を入間川が流れています。左手には奥武蔵と秩父の山。展覧会を見に来る人は少ないかもしれないけれど、空が広くて気持ちのいいところです。
きれいな水。せせらぎにサギが遊んでいた。
産業遺産を市民のために開放した入間市はえらい。でもアミーゴというネーミングには?? いっそブツーゴ(仏子)のほうが…‥。(宏)

2014年11月13日木曜日

幻の川ビエーヴル。その6・ゴブラン織、そしてセーヌへ。

ブランキ大通りを渡った2筋の流れは、メトロの高架に面した『ル・モンド』の社屋の両脇から、ルネ・ル・ギャル公園へと向かっていた。
“Le Monde” 社屋。
 ルネ・ル・ギャル公園の南西入り口前の歩道に、1840年までここにあったという〈クルールバルブ水車跡〉の表示板が埋め込まれている。
水車は13世紀始めに設置されたそう。
 周囲の道路から数メートル下がった低地にあるこの公園は、2筋の川の中州だったところに造られている。
1938年完成の公園。
片方の川が流れていたクルールバルブ通りのバスク料理店「エチェゴリ」の壁に、“Cabaret de Madame Grégoire” の文字が残されている。昔ここは川畔の人気キャバレーで、ベランジェやヴィクトル・ユゴーが常連だった。店内に当時のようすを描いた古い絵がかかっています。
“マダム・グレゴワール”のキャバレー。
かつての川筋だったこの通りがベルビエ・デュ・メッツ通りに名が変わった右手に、ゴブラン織製作所の建物がある。ゴブラン織は、15世紀にジャン・ゴブランが、石灰分の少ないビエーヴルの畔に開いた染色工場で創られ、17世紀に王立工場になって、王宮などのための織物を生産していた。ゴブラン大通りに正面がある「ギャルリ・デ・ゴブラン」には、ゴブラン織と、モビリエ・ナショナル所蔵の家具類が展示されている。工房見学もあって、昔のままの気の遠くなるような時間をかけて織る工程を見ることができます。
クルールバルブ通りとゴブランの17世紀の建物。
ゴブラン織工房北側の通りに、“白い王妃の城”という15世紀初頭の館がある。ゴブラン家も住んだというこの館の向かいに、真っ白な外観のモダンな建物ができていた。公立のクレッシュ(託児所)などがある“幼児の家”。“子どものための白い城”です。
ベルビエ・デュ・メッツ通りに戻り、大きな壁画の脇を北へ。
託児所。外壁の小さな三角穴がかわいい。設計はRH+。
SETH作の壁画。右を抜けるとすぐアラゴ大通り。
アラゴ、ポール・ロワイヤル、2つの大通りを渡って5区に入った川は、低い位置を走るパスカル通り付近を抜け、ムフタール通りの下に出ていた。
19世紀末、『家なき子』の時代、このあたりの流域は、すでに汚染がかなり進んでいた。アジェやマルヴィルの写真で、このころのビエーヴルのようすがわかります。
パスカル通り。
皮革業者が並ぶビエーヴル。マルヴィルによる当時の写真。
ムフタールのふもと、ゴブラン大通りがモンジュ通りにぶつかる辺りで1筋になった流れは、サンシエ通りの南側を行く。サンシエの大学構内も流路だった。
サンシエ通り。川は右の低い道の裏手を流れていた。
植物園南脇、ビュフォン通りに並ぶ自然史博物館別館の裏手の、今は袋小路のニコラ・ウエル通りを流れていたビエーヴルは、オピタル大通りに出ます。
ビエーヴルが流れていた自然史博物館別館裏の袋小路。
川はオステルリッツ駅構内を横切って、セーヌに流れ込んでいました。
メトロ5号線の高架橋の辺りに流入口があったらしいけれど、今は跡形もない。
メトロ高架橋の向こう側に流入口があったという。
河岸に並ぶ船の中に、ル・コルビュジエが救世軍のために設計した船があって、歴史記念物として改装中です。
それはともかく、ここが幻の川ビエーヴルの終点です。
◉生きた川、死んだ川。
2筋の流路のうち、西(左)が概ね自然の流れで、東側(右)は水の利用のために造られた流路という。人工の流路は遅くても12世紀には使われていたらしい。自然の流れを死んだ川筋 “bras mort”、後者を生きている川筋“bras vif”という。
川筋のおもな地点の歩道に埋め込まれた円盤にも、この文字が刻まれている。ニコラ・ウデル通りがオピタル大通りに出た地点では、“bras unique” になっています。
ゴブラン大通りの生きている川筋の標識。死んでるけどね。
オピタル大通りの、ひとつになっている川筋の標識。
◉ビエーヴル通りとヴィクトリアン運河。
サン・ジェルマン大通りのモベール広場近くからセーヌ河岸へ抜けるビエーヴル通り。故ミッテラン大統領が住んでいた通りである。この通りの名は、11世紀に、2つの修道院が、ビエーヴルの水を敷地内に引くために造ったヴィクトリアン運河の名残り。我田引水です。水路は17世紀末に埋められている。
ビエーヴル通り。左手がミッテランの住んだ家。
・・・これで、6回に分けてのビエーヴル散策記終了。流域の各所で「ビエーヴル・ルネサンス計画」が進行中です。何年か後、もっと多くの場所で、水辺のある風景が見られるようになっているといいなぁ、と。(宏)

2014年11月9日日曜日

幻の川ビエーヴル。その5・パリ13区、グラシエール。

パリのビエーヴルの出発点は、外環道路のすぐ内側ケレルマン公園。池にカエルや小魚が泳ぐ公園を出て、ポテルヌ・デ・プープリエ通りから流れの跡をたどります。
ケレルマン公園。
 ビエーヴルは、トラムが走る内側の環状道路をくぐり、そのままプープリエ通りを北へと流れていた。
向こうはかつてのプチット・サンチュールのガード。
しかし、この道は上り坂なのです。市内の流れをたどると、地形に逆らっている? というところが他にもある。 
いちばんの理由は、長い歴史の中で地形が人工的に変えられてきたこと。そして、ビエーヴルの流路も変えられてきた。無数にあった水車が、低い水位の水を高い位置に移していたからです。
ラベ・エネック広場の周囲には、1920年代末から30年代に建てられた一軒家が集まっています。先に引用した『家なき子』の一節は、おそらくこの辺りのこと。その引用部分のすぐ前には、
「このへんはラ・メーゾン・ブランシュとグラシエールの間にある土地で(略)いちばんきたない陰気な所だと(略)信じられもしていた。(略)ビエーヴル川と言えば、たいてい人がセン・マルセルの場末で、工場地になっているというので、頭からきたない所と決めてしまうのであるが、…‥」とある。
ラベ・エネック広場。20年代末の一軒家。
トルビアック通り付近でビュット・オ・カイユの高台にぶつかって、大きくターンした川筋は、ランジス広場へ。やはり’20年代の一軒家が並ぶシテ・フロラルも近く、のどかな空気の場所だけれど、南側の旧国鉄用地の再開発で、ここも大きく変わろうとしている。
再開発地区の広場側に、短いけれど新しいビエーヴルが造られています。
ビエーヴル復活計画では、街路の内側に隠れている元の流路とは多少ズレても、可能な場所に、水路を造ろうとしているのです。
1928年に開発されたシテ・フロラル。
ランジス広場南の短い再生ビエーヴル。

この辺りの道路は、昔のビエーヴルの流路と一致しているところが多い。ランジス広場で再び向きを変えた2筋の川に挟まれていた地域は、グラシエールと呼ばれていた。石を掘り出した跡の地下道に、冬に張った氷を保存し、それを夏に売っていた時代の名残です。
曲線の流路跡に造られたブリア・サヴァラン通り。
ヴルツ通りも川筋跡の通りです。
ヴェルニョー通り沿いを北上した川は、メトロ6号線の高架があるブランキ大通りを渡リます。(宏)

2014年11月8日土曜日

幻の川ビエーヴル。その4・再生された流れ。

アントニーのエレール公園から、暗渠の上に作られた道を行くと、ほどなくRER・B線の走る土手にぶつかります。ビエーヴルがくぐっていたアーチ型のトンネルが線路の向こう側に抜けています。
今は歩行者専用のガード。(ナオ撮影)
ここは洗濯場だった。昔の絵はがきです。
アントニーからジャンティイへ、地下のビエーヴルを追ってB線の東側を北上する。ここからはほとんど同行者ナシのひとり歩き。ただこの区間、暗渠化された後の都市開発で、大半は川の痕跡もなく、歩いてもつまらなかった区間は省略します。
A86の北、フレンヌ刑務所を見上げる辺りのプレ・ド・ラ・ビエーヴル公園からライ・レ・ローズのビエーヴル庭園にかけてのバス通り(D127)沿いに、本格的に再現されたビエーヴル川が見られます。
ビエーヴル流域で進められている“ラ・ビエーヴル・ルネサンス計画” の最初の成果で、広い道路巾を縮小して造られた緑地帯の地下深くに、巨大な下水道を通し、その上にきれいな水を流すという二重構造。増水したら下水道に水を逃がす仕組み。この、下水ときれいな川の水の分離が、ビエーヴル再生のキホンなのです。川の流路と畔の植生は自然に任せていて、若木や葦などが伸び始めています。
水辺は植生保護のため立ち入り禁止です。
この再生ビエーヴルは、渋谷川など東京の水辺復活計画でも参考にしているという。バニューのわが家の近くにある湧水の出る小さな公園も、再生計画の一環で造られていて、湧水を再生川に流しているらしい。
さて、1900年のカシャンの町には、120軒もの洗濯屋があったという。町の中心を南北に走る大通りの裏手、新しい公共集合住宅の並ぶ中にも、再現された流路が見られます。ただここは素材の洗濯、いや選択が悪い。模造敷石とコンクリートの川で、周りの植物もいかにも植木という感じなのです。
カシャンの再生ビエーヴル。団地によくあるやり方だね。
 カシャンとアルクイユの境に、17世紀初頭に造られたヴァンヌの水道橋がそびえている。リュクサンブール庭園に水を引くために造られたもので、今もモンスリ貯水場へ水を運ぶ現役です。ビエーヴルはこのアーチの下を流れていました。
上層は19世紀に増設されている。
サティが住んだ建物と水道橋。(ホソキさん撮影)
水道橋の北側に、作曲家エリック・サティが暮らした質素なアパルトマンがある。サティはヴァヴァン交差点辺りまで歩いて通っていた。
ここからジャンティにかけても、流れの跡は見つけにくい。その後の開発で、街の姿がすっかり変わっているからです。
ジャンティイの北端、ラスパイユ通り裏の、フタされた流路の場所に水の無い川が造られている。ジャンティ在住のホソキさんによると、これは今進められている水辺の復活ではなく、この辺を再開発したときに“記憶の川”として造られたものだろう、とのこと。
水の無い川。
 ビエーブルの畔に建っていたサン・サチュルナン教会裏から、外側環状道路のガードをくぐるとパリです。(宏) 

2014年11月5日水曜日

幻の川ビエーヴル。その3・流れの最終コース、緑の住宅街。


この日はイニー駅からアントニーまで。ホソキさん、ナオコさん、フミオが同行です。
イニー駅のすぐ近くに小さなゴルフ場がある。
そしてここからはヴェリエール・ル・ビュイッソンの町。小川はこのゴルフ場の柵の中へ。柵の外にも分流の川筋があるけれど、水の無い川です。
左の茂みに涸れた川。右手にゴルフ場。
 ゴルフ場の脇を抜けると、落ち着いた田舎町の雰気の街に入る。パリ通りの坂の途中に、今は使われていない洗濯場が残っています。
パリ通りはいかにも“フランスの田舎町”という感じ。
で、道ばたに古い洗濯場。
 ヴェリエールのビエーヴルは住宅地の中をぬって流れていて、川沿いに歩くのは難しい。
住宅の庭の間を流れている。
道路際(橋)に、“ラ・ビエーヴル”の標識。
斜面の上のほうにある市庁舎前広場のテラスで昼ごはんの後、緑の住宅街を下り、流れを探しながらアントニーとの境へ出る。
ヴァカンス先のレストランのようでした。
遊歩道の上に、金網と木立に囲まれた大きな遊水池 “Bassin de la Bièvre” が隠れています。アントニーで度々起きていた洪水の被害を防ぐため、1970年代に造られたこの池は、自然保護区に指定され、148種もの野鳥たちの天国になっている。水質もいいそうです。
5月の“自然の日”に限定公開される湧水池。(フミ撮影)
 ここから、アントニーの競技場とジャン・ヌーヴェル設計の中学の校庭の間を抜けて、エレール公園に入る。湧水池から引かれた小さな池がある。流れのほとんどがこの池から暗渠へと流れ込んでいく。自然のビエーヴルの水が見えるのはここまでです。
エレール公園の池の堰。
でも、ポニークラブのある公園隅の木立の中を、再現された小川が流れています。そして、公園の正面入り口の脇には、かつてあった水車が再現されているけれど、ふだんは水を通していない鉄車です。
公園に再生されたビエーヴル。
花に飾られているけれど水が無い。
この水車の前に“Le Moulin de la Bievre”という、17世紀の館を改装したアパルトマンがある。じつはバニューに引っ越す前、わが家はここに住んでいました。(宏)


2014年11月2日日曜日

幻の川ビエーヴル。その2・ジュイの布地、ルドン。

再びプチ・ジュイ=レ・ロジュの駅をスタート。今日の同行はアヤカさんとホソキさんです。ここからは流れに沿って下流に向かって歩きます。
緩い坂道を上るとジュイ・アン・ジョザスの町。ひなびた家並の街道沿いに建つ、ひときわ立派な館が「ミュゼ・トワル・ド・ジュイ」です。
右手に新館がある。月曜休館。
1760年、この村にオベルカンフが創業した工場で作られていたプリント布地のミュゼ。良質なビエーヴルの水を使って生産されたジュイの布地は、そのいかにもフランス的なパターンが宮廷貴族に受け、川の畔にあった幾棟もの大きな工場で、さまざまな図柄のプリント布地が生産されていた。工場は19世紀半ばまで操業。ここで作られていた図柄は、今も多くのデザイナーに使われています。閉鎖後、場施設はすべて撤去され、今はその跡が流れを巡る公園になっています。
いくつもの川筋が流れるジュイの公園。
ジュイには、やたらに立派な屋敷が多い。駅近くのホテル・レストランで昼食後、ラスパイユに移転するまでここににあったカルティエ現代美術財団の跡がどうなったのかが気になって、寄り道しました。セザールやアルマンなどの野外彫刻がある広い庭園と、18世紀の城館は見えなかったけれど、道路際の書籍売り場や奥のカフェだった建物は、引っ越した当時のまま埃だらけになって放置されていた。緑に囲まれた環境でいい展覧会が開かれ、おしゃれでカッコいい場所だったのになぁ。
諸行無常の蜘蛛の巣だらけ。
ビエーヴル村に入り、ヴィクトル・ユゴーが滞在した館などを眺めながら川岸に戻り、流れに沿ってビエーヴル村の中心に出ます。
ビエーヴル村のラ・ビエーヴル。
商店やカフェも並ぶビエーヴルの村は、住み心地がよさそう。村の北はずれにフランス写真博物館(月・火休館)があるけれど、今回はパス。その代わり、画家オディロン・ルドンの墓を訪ねる。1916年にパリで死んだルドンは、晩年の夏を過ごしたこの村に葬られた。高台の墓地の奥にルドンの墓を発見。野の花に覆われた、いかにもルドンらしい墓でした。
ルドンの墓。
踏切の先、プチ・ビエーヴル通りのルドンがいた家。
ルドン夫妻が夏を過ごしたジュリエット荘を見てから小川歩き再開。次第に平坦になって畑や雑草の生い茂る荒れ地も増えてきたら、イニーの村です。
イニーの木の橋。
今日はイニー駅まで。ビエーヴル歩きはまだ続きます。(宏)