2015年2月12日木曜日

世紀末の匂い、アール・ヌーヴォー。トークショーⅡ期3回目の報告。

駿河台、エスパス・ビブリオでの1月のトークショーも、無事に終わりました。わざわざ西宮や博多から駆けつけて下さった方もいて、ほんとにありがとう。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、産業や技術が急速に発展したヨーロッパ各地の、それもいくつかの都市で流行したアール・ヌーヴォー。このアール・ヌーヴォーという言葉は、1895年にパリに開店したビングの店 “Maison de l'Art Nouveau” から一般的になったという。
フランスのアール・ヌーヴォーは、もともと工芸が盛んだったロレーヌ地方のナンシーで、ガレやマジョレルなど多くの作家たちが、ガラス、家具、そして建築に突出した作品を生み出していた。
今回は 建築家エクトール・ギマールを中心に、パリに残るアール・ヌーヴォー建築を訪ね歩いた話。ギマールの建物はそのほとんどが、16区のオトゥイユ地区に集中しています。19世紀半ばにパリ市に編入されたオトゥイユは、この時代に発達した資本主義のもとで急速に儲けた銀行家や投資家などの新興高級住宅地になっていた。まぁ、今のヒルズ族やアブダビ、ドバイ族みたいなものでしょう。
まだ24歳のギマールが1891年に設計したロッツェ邸。
1894年のジャスデ邸。
ロッツェ邸は、ネオ・ゴシック風の建物。ジャスデ邸もわりに地味な家だけれど、石とレンガ、木などの異素材の組み合わせや、変化のある窓の配置などに、ギマールらしさが見られます。
1894〜95年、ギマールはブリュッセルでアンカールやオルタと会い、特に93年に建てられたオルタのタッセル邸に強い衝撃を受けます。そして完成したのが、パリ最初のアール・ヌーヴォー建築でギマール初期の名作、集合住宅カステル・ベランジェです。
石、レンガ、タイル、鋳鉄などを組み合わせた建物の外観は、思ったよりも落ち着いているけれど、近寄ってみると、窓の鉄柵も雨樋も、あらゆる部分が隠花植物と爬虫類みたいな不思議な造形で覆われている。横の路地に面した内庭の門柱にも、建物の側面にも、恐竜の足やタツノオトシゴのようなカタチが隠れています。
有名な門扉から薄暗い内部を覗いていたら、帰って来た住人のおねーさんが玄関ホールまで招き入れてくれた。扉のすぐ内側の床も天井もシダのような植物模様、灰緑色の壁はうねるような凹凸のある陶板で覆われている。バルコンにも使われている陶板は、この時代の売れっ子陶芸家アレクサンドル・ビゴの作。ホール奥の階段もグネグネ。内庭からの光がステンドグラスを通してほのかに差し込んでいます。
1898年、カステル・ベランジェ内庭側。
カステル・ベランジェ入り口扉。柱の根元にも注目。
この建物、パリ市が主催した1898年第一回建築ファサード・コンクールでグランプリになっている。しかし奇妙すぎだと世間の評判は悪く、”Castel Beranjer” ではなく、"Castel Déranger"(厄介な館)と呼ばれたという。
ギマールは玄関左の角部屋にあった彼自身のアトリエと住居だけでなく、すべて違う間取りの36戸の室内も家具も、すべてをデザインしていた。ここは今も現役のアパルトマンだから内部を見ることはできないけれど、家具の大半は取り払われているという。オルセー美術館にある"Banquette de fumoir"(喫煙用の長椅子)は、ここにあった家具の一部です。
喫煙者のための長椅子。オルセー美術館。
ギマールといえばメトロ出入り口。 パリのメトロの父といわれるビヤンヴニュに指名されたギマールは、A・地上に駅舎のあるもの、B・出入り口をガラス屋根で覆ったもの、C・看板を支柱で支え、階段を鉄柵で囲んだもの、の3パターンを基本に設計。それぞれの場所に応じたバリエーションを、部材をユニット化して建設。1900年から1912年までの間に、合計141のギマール駅が造られた。今遺されている86の駅のほとんどが簡便なCタイプで、再現されたものを含めてBタイプが3駅だけ。Aタイプはゼロです。
Cタイプの駅。文字のデザインもギマールです。
取り壊されたAタイプ、バスティーユ駅。
半透明のガラス屋根を持つ駅の中でも、3号線の西の終点ポルト・ドーフィーヌ駅は、階段周りをパネルで覆ったただひとつの駅です。凱旋門からブーローニュの森へ延びる広い緑道フォッシュ大通りの端っこにある。緑の中にやさしくきれいな姿で佇んでいます。
ポルト・ドーフィーヌ駅。1904年。
カステル・ベランジェとメトロで名を上げたギマールは、個人邸や集合住宅、音楽ホールなどを次々に設計。バニューの隣町ソーにある”シャレ・ブラン”という一軒家もそのひとつだけれど、数年前から空家になって放置されている。歴史的記念建築に指定されているけれど、手入れもたいへんだから買い手が付かないないんでしょうね。
ソーのシャレ・ブラン。1909年。
カステル・ベランジェのあるラ・フォンテーヌ通りに建つメッツァーラ邸は、女子学生寮として使われています。ヴァカンスで学生がいない時期に、ここでギマールに関する小さな展覧会が開かれていて、中に入って吹き抜けのホールの大きなガラス天井を見ることができた。ホール奥の食堂とサロンは中庭の外光が差し込み、思ったよりも明るい家でした。
メッツァーラ邸のガラス天井。1910年。
オトゥイユのモザール(モーツァルト)大通りのギマール邸は、彼がユダヤ系アメリカ人の画家アドリアーヌと結婚して建てた家。 扁平な三角地に建てられた家は、最上階を奥さんのアトリエ、あいだに居間、台所、寝室などの生活空間を挟んで、下にギマールのアトリエ、という奥さん重視。図面を見るとどの部屋も楕円形という不思議な設計で、ここもすべての家具を自分でデザインしている。居間の家具はプチパレに展示されています。
ギマール邸。1910年。現存するギマールの最高傑作。
カステル・ベランジェのすぐ近くの角に小さなカフェがある。このカフェのある建物を含む数棟の集合住宅もギマールの設計。ここのアパルトマンに住む建築家のアサミさん一家が食事に招んでくれました。通りの標示や雨樋などはまさしくギマールのアール・ヌーヴォーだけど、階段や室内は思ったよりもずっとシンプルで機能的だった。それでも仕切りのガラス扉の枠の曲線がそれらしく、いい雰囲気でした。
アントワーヌはこのカフェの先代のマダムの名です。
アガール通りの集合住宅(1911年)のサロン。
しかしこのころ既に時代の流れはアール・ヌーヴォーから離れていきます。
1911年にギマールは、マレ地区のユダヤ人街のシナゴーグを設計した後は、いくつかの集合住宅を造ってはいるけれど、目立ったものはない。マレの北部ブルターニュ通りに1919年完成の商店兼用集合住宅は、どこがギマール? というつまらない建物です。
1920年代のギマールは、ほとんど忘れ去られた存在となる。1930年に最後の建物が造られたけれど、1938年、ナチの侵攻を避け、奥さんの実家のあるNYに渡り、1942年に無名の人として死んだという。
ギマールが建築研究者に再評価されたのは、1960〜70年代。一般にも知られるようになったのは、その建物の多くが取り壊された後の1980年代のことです。

ギマール以外の、パリのアール・ヌーヴォー建築にも少し触れておきます。
東の郊外ノワジエルのショコラ・ムーニエ"Chocolat  Mounier"の工場は、パリのアール・ヌーヴォー建築の源流のひとつ。19世紀末から20世紀初めのパリでは、ラリックのアクセサリー、ガレやドームのガラス、ロートレックやミュシャのポスター、サマリテーヌ、プランタンなどの商業建築、そしてマキシムやジュリアンなどレストランやカフェの内装……と様々な分野でアール・ヌーヴォーが流行しました。
アルマ橋南のラップ大通りに建つジュール・ラヴィロット設計の集合住宅は、1901年のファサード・コンクール優勝作。華やかでやや退廃的な時代の雰囲気をよく伝える建物です。エロチックなカタチが入り口を囲み、建物の前面を備前焼ならぬビゴの陶板が埋め尽くしている。ここは陶芸家ビゴが自分の工房の作品を宣伝するために建てたもの。
ラップ大通りの集合住宅。ダリが絶賛したそう。
ラヴィロットの装飾的な建築は、建物全体の構造や機能性を一貫したデザインで総合的にとらえようとしたギマールと違って、表面だけを時流に乗って飾り立てたもの、という批判がある。これ、現代のR.RさんやK.Kさんたちにも似ている気がしますね。
現存するギマールの建物は、どれも使われていて内部を見ることができない。ナンシーでもブリュッセルでも、グラスゴー、ウイーン、バルセロナ、プラハ、リガでも、他の町の代表的なアール・ヌーヴォー建築は、どこも美術館などになって公開されているというのに、なぜギマールのパリは? です。
*パリにあるギマールの建物は、『改訂版 ガイドブックにないパリ案内』『パリ 建築と都市』に地図付きで紹介しています。パリ案内はamazonからKindle版も出ています。

自宅のアトリエに飾られていた写真です。
パリ市内にあるル・コルビュジエ作品、中でも彼が住んでいたアパルトマンのアトリエ住居の内部空間を中心に、ル・コルビュジエ建築の魅力と、批判も。それにオーギュスト・ペレ、マレ・ステヴァンスなどが展開した近代建築について話します。
まだ寒いけれど、金曜日のエスパス・ビブリオはワインバー。ワインをお目当てにどうぞ。(宏)