2015年4月29日水曜日

1パック1ユーロのリンゴ。

近くの廉価スーパー "DIA"で売っているリンゴです。何種類もあるフランスのリンゴは、どれも日本のに比べてずっと小さいけれど、これはふつうのよりさらにやや小粒です。
透明パックに7つ(約800g)入ってます。
ところがこれがおいしいのだ。カリッと歯ごたえがあって、ほどよい甘さと適度な酸味。日本にも昔はあった、リンゴらしいリンゴです。品種は ariane(アリアーヌ)。
産地はフランス南西地方。ロワールやローヌ地方でも作られ、フランスでいちばんポピュラーな品種だけれど、大半がタルトやコンポットに使われているらしい。
どうしてこんな極上品が格安なんだろう? うれしいけれどフシギです。(宏)

ソー公園の桜。

10日ほど前のことだけれど、先々週の土曜日にソー公園で花見をしました。ここの桜の園の開花はパリより遅いのだけれど、数日来の好天でもう満開だった。
爽やかに晴れ渡った昼下がり。白くて上品な桜の下で、マサエさん+ベルトラン一家といっしょにワインの栓を抜いてお弁当を食べながらのんびり、です。
大人も2人の子どもたちも上機嫌。
 隣からもフランス語と日本語のおしゃべりが聞こえる。風に乗って中国語や
韓国語、英語も流れてきます。小さな子どもたちが桜の木々の間を縫って追いかけっこ。のどかで平和そのものです。
ピンクの八重桜のコーナーにも行ってみた。
絢爛でおめでたいけどね。
 こちらは宴会のグループもはるかに多く、芝生の隙間がないくらいの賑わい。ここでこんなに大勢の人を見たのは初めて。音楽も話し声もウワーンと響いていました。(宏)

2015年4月17日金曜日

太陽がいっぱいのテラスで。

寒い間はタバコを吸う人がコート姿で仕方なく座っていたカフェやレストランのテラス席。少しでも陽光があるとたちまち人が出てきます。
まして初夏のような陽射しが続く今週、どの店のテラスも満員です。
ラ・パレットの遅い昼食。

ル・セレクトの午後。
夕方のパサージュ・ドーフィーヌ。
暗く寒い日々がようやく過ぎて、テラスに出られるようになると、もう気分はヴァカンスへ。それにしてもパリの人は、陽にあたるのとおしゃべりが好きだなぁ。(宏)

花の庭、パリの桜も。

とつぜん春が来て、ウチの庭は一気に花が咲いています。プラムに続いてサクランボやナシも満開。リンゴも開き始めた。

サクランボ。白い花のおかげで庭全体が明るくなる。
去年は不作だったけど、今年は実ってくれるかな?
去年は実が小さかったナシ。今年は大きく実るかな?
去年は大豊作だったリンゴ。今年も実ってくれるかな?
セーヌに面して建士院 (Institut de France) 裏の小さな公園の八重桜が、まるで初夏のような陽光に濃いピンクの花をいっぱいに広げています。
スクワール・G・ピエルヌ。
みんながうれしい。もう怖いことが起こりませんように。
ついこないだまでは誰ひとりいなかったベンチも,うば桜(失礼)で満開でした。(宏)

2015年4月8日水曜日

東山のネコ、産寧坂の着物。

イワマツ夫妻の案内で祇園から東山に向かいました。知恩院を抜け、境内の奥から山道に入る。標高は大してないけれど、昨日の雨で道が水流で流されて木の根や石が露出していて思ったより歩きにくい。
山道です。ときどきおばさんおじさんが下りて来る。
急な斜面の森を抜けると空が思い切り広がった頂に出る。芝生の公園の駐車場脇にテーブルを出したワゴン車のカフェでひと休み。と、駐車場の隅にネコたちの集団が日向ぼっこしている。
東山のネコたち。
そこに一人のおじさんがやってきた。するとネコたちがいっせいにおじさんの方へ向かっていくのです。別にエサをやるわけでもないのに、何匹かは足下にすり寄っていく。訊くと「いや、いつも来とるから」とのこと。笛も 吹かないのに東山のハメルーンでした。
近寄ってもネコの関心はおじさんに。
山頂からは 京の街が一望のもと。イワマツさんは、大阪のあべのハルカスも見えると言う。でも、春霞のもとで(宏)のかすんだ目には確認不能でした。

ちょっと分かりいにくいコースを下り清水寺の裏へ。舞台を見上げながら産寧坂へ出ます。さすがオバマ夫人も訪れた世界的観光地はあふれるような人。着物姿の女性がやたらにいる。さすが京都、と思ったら、その大半が中国からのみなさんの貸衣装姿だった。
もちろん日本の人も。
托鉢修行の坊さん。
さて、その日の宿は京都の南のワカメちゃんの家。久御山町東一口というこの地の特産、聖護院大根(淀大根)をはじめ、地元の京野菜を堪能しました。
で、翌朝、「テクノパン」という名のパン屋さんの作る本格的なバゲットでおいしい朝食の後、ワカメちゃんの案内で大徳寺の塔頭の庭などあちこち歩き、夜はゴツジくんたちと宴会。だったのだけれど、なんとこの日の写真をみんな消してしまったのです。
なぜか残っていたのが下の1点。この銭湯、ライヴのイヴェントをやっていて、マキちゃんとヤンの ky も演奏している。
錦市場近くの錦湯。
 それにしてもデジタルはいやだね。大徳寺の写真は土門拳ばりの名作だったのに。というわけで、京大阪報告はこれでおしまい。ほな、さいなら。(宏)







2015年4月4日土曜日

夙川、高瀬川、鴨川、祇園白川。

苦楽園の丘の中腹のイワマツ家で泊まった翌朝、阪急・苦楽園駅から川畔の散歩道を夙川駅まで歩きました。ここには1000本の桜が植えられていて、今ならちょうど満開だと思うけれど、歩いたのはひと月前だからふくらみかけた蕾状態。でも澄んだ音で流れるせせらぎが気持ちいい。
イワマツ夫妻もいっしょに京都へ。
夙川駅のホームは川の上。
お〜タカラヅカ! さすが地元、さすが阪急。
で、京都、四条河原町。駅を出るとすぐに高瀬川、そして鴨川。パリはセーヌ。ロンドンはテームズ、ローマはエルベ。都心に水辺のある町はいいね。
高瀬川。
鴨川。
 京都に行ったのはゴツジくんから「展覧会やるから京都で飲もうよ」という誘いがあったから。で、まずは会場の祇園の町家、カフェ・ギャラリーへ。
かいらしい舞子はん。ここも今なら花盛り。
フク和ウチの外。
フク和ウチのウチ。
飲むのは翌日にして、東山方面に向かいます。ほな、行こか。(宏)

2015年4月3日金曜日

大阪梅田、昭和レトロの中崎町。

話は前後するけれど、3月初めに京都、大阪へ行ってきました。3泊のうち最初の夜は西宮の苦楽園に住むイワマツさんちということで、まずは新大阪から梅田へ。で、少し時間があるので、骨董市が出るという中崎町をぶらつくことにした。
ぴかぴかの梅田とは対照的な街並み。
戦災を免れた古い街はすっかり寂れていたらしい。でも、路地に長屋の残るレトロな街並みに惹かれた人たちが店を出すようになって、若い人たちが集まる町になったという。
あいにくの雨で骨董市は中止。それでも”昭和の街”を、傘をさした若い人たちが歩いていた。で、気がついた。大阪の女性は、みんな模様入りの傘をさしとるんやね。無地の傘だった女性は(由)だけ。ほんまやで。
雨が強くてよく見えないけど、花柄と水玉。
小物や古着、自然系、古本、レストラン・・・。カフェがやたら多いけれど、雨模様のせいかどこもいっぱいだった。
古書カフェ。
路地裏の Café Colikoの壁。
パリふう。
和風も。
やっぱ柄入り傘。マンションもあるのは、ましょうがない。
街は新しくすればいいわけじゃない。取り残されていたた街が、こうして再生するのはほんとにいいこと。がんばれ中崎町です。(宏)

寒いパリ、白い花。

バニューに戻って間もなく2週間。4月になってもぐずついた陽気です。まだダウン姿の人もいる。
それでも庭の木や草花は健気に咲いている。玄関前のアンズも満開です。
満開になっても雨と強い風で吹き飛ばされてしまう。
 リニューアルした「オヴニー」を見てほしいという編集長のミホさんとゴンクールの裏道を歩いていたら、教会脇のコブシも満開だった。
白くかすんだ街角に咲く白い花。
こちら側の歩道脇にコブシの花びらが。
 メールで石神井川や青山墓地の桜の写真が送られて来た。パリの春はもう少し先のようです。(宏)

2015年3月20日金曜日

"smoke" mintdesigns のコレクション。

  
素材やプリントにこだわって、流行にとらわれない生活に生きる服を創り続けてきたミントデザインズの秋冬コレクションを見ました。
会場は恵比寿ガーデンホール。
異素材を組み合わせる工程の加工で模様を入れたり半透明にするなど、さまざまな工夫で作られた服は、ユニークで、でもシンプルで着やすそうでかっこいい。
靴もいい。
スカーフもいい。
ぴょこんとお辞儀してサッと引っ込んだ2人。
mintdesigns の勝井北斗くんとは彼がウンと若いころから、八木奈央さんとも彼らがロンドンのセント・マーチンズの学生だった時代からの付き合い。そのころ2人はよくパリにやって来て、展示会を見たり、本屋やミュゼを回ったり、課題制作のための生地やボタンを探し歩いたりしていたっけ。
満員の観客が帰りの会話で、口々に「すっごくよかった!」と言ってました。(宏) 


2015年3月16日月曜日

ル・コルビュジエとその時代。トークショーⅡ期4回目の報告。

エスパス・ビブリオでのトークショーⅡ期最後の回も、寒い夜なのにたくさんの皆さんに来ていただきました。
ル・コルビュジエの建物、とくに近年公開された彼の自宅アトリエを中心に、1920〜30年代の近代建築とアール・デコについて話しました。
一昨年パリで開かれた「1925 アール・デコ魅惑の世界展」では、1920年代後半から30年代に造られた建築、車や船舶、服やアクセサリー、玩具、ポスターなどデザイン全般の作品が展示されていた。第一次世界大戦後の1925年にパリで開催された装飾美術・近代産業国際博覧会を契機に、第二次大戦が始まるまでのつかの間の平和な時代に流行したアール・デコは、ノスタルジックだけれど粋で、どこか暖かみも感じさせ、今見ても魅力的です。
鉄筋コンクリートによる建築が一般的になったこの時代、パリにはアール・デコ建築がたくさん建てられる。そして同時に、より機能的な近代建築も数多く造られました。
アンリ・ソヴァージュによるヴァヴァン通りの階段状の集合住宅や、”蜂の巣”の裏手サイダ通りのHBM(低家賃住宅)は、第一次大戦前の、早すぎたアール・デコ建築です。
ヴァヴァン通りの集合住宅 (1912)。
15区サイダ通り(rue de la Saïda)のHBM (1913)。
パリで1920〜30年代の建物を見て歩くのは愉しい。外周通りに並ぶ公共集合住宅のほとんどがこの時代の建築だし、学校もこの時代のものが多い。
また、モンスリ公園に面したリュルサ設計のアトリエ住宅やペレによるオルロフのアトリエなど、アトリエ建築にもいいものがたくさんあります。
ル・コルビュジエ以外の建築家では、第二次大戦後のル・アーヴル復興計画やランシーの教会で有名なオーギュスト・ペレ。そして、自身のアトリエと友人の芸術家たちの家など、美しい個人住宅の設計で知られるロベール・マレ・ステヴァンスの2人に注目です。
リュルサ設計のアトリエ住宅 (1927)。
14区カッシーニ通りの集合住宅 (1930)。
P・シャローの”ガラスの家”(1932)。
13区キュス通りの小学校 (1934)。
パリ市近代美術館・パレ・ド・トーキョー(1935)。
ペレのアトリエがあったレヌアール通りの集合住宅 (1932)。
16区マレ・ステヴァンス通り (1927)。
 さて、ル・コルビュジエです。
 パリに建てられた最初の建物が、モンスリ公園西の路地スクアール・モンスリにある"オザンファン邸"。雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』を、ル・コルビュジエと一緒に創刊したピュリスムの画家オザンファンのアトリエ住宅です。
オザンファン邸(1924)。屋根は後年に変えられている。
オトゥイユの路地に建つ "ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸" は、2軒つながりのアトリエ住宅で、ジャンヌレ邸は現在ル・コルビュジエ財団の事務所と資料室に使われ、奥のロシュ邸が公開されています。吹き抜けのホールを挟んで、生活空間と客を迎え入れるスペースが分離され、2階の通路で結ばれている。ピロティ上のサロンのスロープや、両サイドから吹き抜けを見下ろせる構成、小さな屋上庭園など、いろいろ工夫があって楽しい家。ちょっと住んでみたくなる。
ラ・ロシュ邸 (1923〜25)。 10 square du Dr. Blanche
 そして、パリ西北のセーヌ沿いの町ポワシーに建つ代表作が "サヴォワ邸" です。細い柱で支えられた白く平たい建物が、丘の上の広い緑に浮かんでいる。
この大きな家は陸屋根の雨漏りが多くて、建主のサヴォワ夫妻は短期間しか住まなかったらしい。第二次大戦中はドイツ軍の宿舎や武器庫に使われ、戦後は廃屋になっていた。きれいに改修された今は、光に満ちた気持ちのいい空間に、ル・コルビュジエ詣での建築ファンがあふれいます。
サヴォワ邸(1928)。
これらの家を見ると、 "近代建築の5要点" として挙げた彼の理想が素直に伝わってきます。「ピロティ」「自由な平面」「自由な立面」「水平連続窓」「屋上庭園」という5つのポイントです。一般に ”近代建築の5原則”と訳されているけれど、壁が建物を支える石造りと違い、鉄の構造体が支えるコンクリート建築がこれらを可能にする、ということ。"原則" という訳語はおかしい。例えば縦長の窓があったら原則逸脱で近代建築ではない、ってことになってしまいます。
さて、セーヌのオステルリッツ河岸に、ルイーズ・カトリーヌ号という船が係留されています。1915年にベルギーのリエージュで建造され、1920年までルーアン=パリ間の木炭運送に使われていたペニッシュ(川船)で、ル・コルビュジエが救世軍の依頼で、160のベッドを持つ宿泊所と無料給食所に改修したもの。1930年から94年まで、家の無い人たちを受け入れてきた。その後老朽化して放置されていた船が、歴史建造物の指定を受け、ル・コルビュジエの船として修復工事が進められている。ただし、復元するだけでなく、遠藤修平の設計でデザインや建築の展示場として改装されるらしい。
改装中の La peniche Louise-Catherine。
パリ国際大学都市シテ・ユニヴェルシテールのスイス館は、ル・コルビュジエ最初の公共建築です。ピロティから入る地上階と1階(日本では2階)の一部屋が公開されている。ペリアン設計のロッカーや本棚のある明るい部屋は、いかにも学生寮らしく簡素で好感が持てる。同じ大学都市のブラジル館 (1959)は、ルシオ・コスタとの共同設計。どうやら弟子のコスタの設計に、大先生はあーだこーだと注文をつけたらしい。
新国立図書館フランソワ・ミッテランの南に建つ救世軍本部宿泊施設もル・コルビュジエです。ブロックガラスによる立方体の付属建物など一部を見ることができます(要予約)。ただし、ここに寝泊まりしている人たちに決してカメラを向けたりしないこと。
スイス館と救世軍宿舎は、後のユニテ・ダビタシオンの原型になっている。
救世軍の建物に近い外周通り沿いには、プラネクス邸(1928) があって、今もプラネクスさんの子孫が住んでいるらしい。外装がくたびれていて少々ザンネン。
パリ国際大学都市のスイス館 (1930)。
救世軍本部宿舎 (1933)。
16区の南西はずれ、パリとブーローニュ・ビヤンクールの境のナンジュセール・エ・コリ通りに建つル・コルビュジエ設計のアパルトマンに、彼自身の自宅アトリエがある。 
通りの向かいのウニの殻みたいな覆いはスタッド・ブーアンです。この辺りから、フランス・オープン・テニスの会場ロラン・ギャロスにかけての住宅街には、クック邸などル・コルビュジエによる4棟の家をはじめ、ペレやマレ・ステヴァンス、リュルサなどが設計した1920年代の家が集中しています。
左にリチォオッティが改装したスタッド・ブーアン。
9階建ての1階から6階 (日本では2〜7階) は、各階 2、3戸ずつの集合住宅。この場所が気に入ったル・コルビュジエは、設計料の代わりに上部2層を取得して自身の住居とアトリエとしたのです。
24 rue Nungesser et Coli。
ラ・ロシュ邸同様、ここもル・コルビュジエ財団の手で修復され一般公開(土曜のみ)されている。インターフォンで来意を告げてドアを開けてもらい、エレベーターで6階 (日本の7階) へ上り、階段で7階へ。7階にサロン、寝室、キッチン、浴室などの生活空間と、吹き抜けのアトリエ。螺旋階段で結ばれた8階には来客用の部屋と屋上庭園という配置です。
ブロックガラスで覆われた狭い外廊下。
明るいサロン。
仕事部屋の写真。
明るいキッチン。
明るいシンク。当時の蛇口もいい。
明るい浴室。
明るい読書コーナー。
ピュリスムの画家でもあったル・コルビュジエのアトリエは、東西のテラスからの光が差し込んでいる。北側の壁はコンクリートではなく、隣の建物の外壁と思われる石壁です。ル・コルビュジエはこの壁が好きだったようで "語りかける石、毎日の友だち”と言っている。”住宅は住むための機械である”と宣言した近代建築家のちょっと意外な一面です。
アトリエは6m×12m、高さは3m50。
使用人室の、ドアを兼ねたタンスをはじめ、本棚、食器棚などの家具やサロンのソファや椅子はすべてシャルロット・ペリアンのデザインです。
使用人室の稼動タンス。
東側のテラスに出るとスタッド・ブーアンがぶわーんと横たわっている。この競技場はル・コルビュジエのアパルトマンより古く、1925年からここにあったのだけれど、リュディ・リチオッティの
やたらに自己主張の強い改装で、インパクトある眺望になりました。
右手に PSGの本拠パルク・デ・プランスが見える。
北側に中庭があり、建物の平面は凹型です。
螺旋階段で8階へ上り屋上庭園に出ます。
らせん階段と通路の水平連続窓。
庭園というほど広くはないけれど空が広い屋上庭園。
7区のセーヴル通りに事務所を構えていたル・コルビュジエは、奥さんとともに人生の最後までここに住み続けました。どの部屋も光にあふれた気持ちのいい住居です。ル・コルビュジエが設計した個人の家は、どれも住んでみたいな、と思わせる魅力がある。
ただ、彼が理想として提唱した "輝く都市” には、あまり賛同できない。1925年に発表した "ヴォワザン計画は、パリの右岸の建物を取り払い、広い空間に高層ビルを建てるというものだった。幸い計画だけで終わったこの考えを、彼はブラジルやインドで実現し、なんとも殺風景な街を造っている。ペレが設計したル・アーヴルも同類で、広すぎる街路と均質な建物群には、街としての楽しさがありません。
シャイヨー宮の Cité de l'architecture & du patrimoine(建築・歴史遺産センター)にマルセイユのユニテ・ダビタシオンの住居ユニットのひとつが展示されている。建物をひとつの都市になぞらえ、ユニットを組み合わせて構成した巨大な集合住宅の一単位です。しかしこの機能的な住居の天井の低いこと、階段などの巾の狭いこと。
これらの大きな建築の欠陥は、住む人たちの多様性を無視し、人を計量化した均質な単位と考えてしまっていることだと思う。
ユニテ・ダビタシオンの室内。
ロンシャンの教会は芸術作品としてきれいです。ここに住むのはたぶん神様だろうけどね。 
ロンシャンの教会。
ビル風にあおられながら、湾岸のビル群や六本木ヒルズの下を歩くときの惨めな気分、侘しさを、ル・コルビュジエを信奉する開発者や設計者たちは感じたことが無いのだろうか。 
建築って、その規模が大きくなればなるほど、ヒトと離れてしまうものなのです。(宏)