シテ・ユニヴェルシテール(パリ国際大学都市)の日本館で、”Flawar 2' と題した細木さんの個展が開かれていました。去年に続いて2度目の花の絵の展覧会。前回は大小さまざまな絵があったけれど、今回はほぼ月一点のペースで描いたという20点ほどの大作が並んでいた。
前の絵で描かれていた花瓶が消えて、それぞれの花々が画面からあふれ出して、広がりを感じさせる絵は、ふつうの「花の絵」の概念を超えた迫力があって、とてもいい。
自由でのびやかな、ちょっとマチスやデュフィを思わせるような絵もあって、でもそれらよりも力強く深みがあるように(褒めすぎかな?)感じたのでした。(宏)
2019年3月22日金曜日
2019年1月8日火曜日
クノップフ展。
プチ・パレで開催中のクノップフ展を見ました。
彼の家の塀や内装をもとに作られた会場入り口のデザインが、、ウイーン分離派の建築を思わせ、かっこいい。会場構成もわかりやすく、最近の展覧会では珍しく解説も読みやすい。
ブリュッセルの王立美術館から運ばれたものを中心に、100点あまりの作品が展示されています。
「お前の名は母音が一つしか無いのに子音が多すぎる。せめて最後の fはいらないだろう」と友人に言われたというKhnopff という姓は、祖先が東欧出身だったせいらしい。お金持ちの家柄で父親は王立裁判所の検事だった。
自分で撮った写真をベースにした作品も多い。パステル画のため、ここには展示されていない代表作『記憶』は、妹のマルグリットの写真7枚をひとつの画面に再構成したもの。
パリでギュスターヴ・モローの影響を受け、イギリスのバーン・ジョーンズやロセッティ、それにウイーン分離派とも交流したクノップフ。マルグリットモデルにした象徴主義作品が中心だけれど、それらよりもむしろ数は少ないけれど、風景画や肖像画の小品に惹かれました。(宏)
2019年1月1日火曜日
どこへ行くのか?
*
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
ま、それはさておき、とりあえず、
明けましておめでとうございます。(宏・由)
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?
これはゴーギャンが、1898年にタヒチで描いた作品のタイトルです。
もちろんイノシシを描いた絵ではありません。
しかしまったく、日本もフランスも地球全体も、一体どこへ向かって猪突猛進しているんだろう?
ま、それはさておき、とりあえず、
2018年12月21日金曜日
ドワノーのアトリエ。
バニューの北の隣町モンルージュに、写真家ロベール・ドワノーが住んでいたアトリエ住宅がある。一般公開はされていない。1930年代に建てられたアーティスト向け集合住宅群の中にあって、数棟先には画家フェルナン・レジェもいた。
岩波やリブロポートから出版されているドワノー(ドアノー)の写真集を訳した花ちゃん(堀内花子さん)の縁で、このアトリエ住宅を見ることができました。ただし非公開なので写真もナシでの報告です。
モンルージュの東隣、ジャンティイ生まれのドワノーが、結婚後の1937年から亡くなった94年まで家族と過ごした住居は、彼の2人の娘、アネットとフランシーヌが運営する”Atelier Robert Doisneau”として、ドワノー作品と資料の保全管理の場になっている。この日はフランシーヌさんが説明してくれました。
2階と3階(フランスの1・2階)の住居には、大きな窓のある吹き抜けの広間が2つ。ひとつは家族の居間で、もうひとつがドワノーの仕事場だった。今は大きな本棚と作品棚で埋めつくされている。
45万カットもあるというネガは、上階の小部屋の棚に並ぶファイルに収められ、年代別に整理されている。ネガは静電気を防ぐ素材のシートに入っています。全ての作品が検索できるように、デジタル化されている。印画紙に焼かれた作品は、テーマごとにファイルされています。
『ドワノーと音楽』展は、201919年4月28日まで。 |
ラ・ヴィレットのフィルハーモニー・ド・パリで開催中の『ドワノーと音楽』展が開かれている。棚にあったバレーの練習風景の写真は、裏面にメモもなくネガも見つからないため、展示できなかったというものでした。(宏)
2018年12月16日日曜日
堀内誠一・絵本の世界。
エスパス・ジャポンで先週末まで開かれていた『堀内誠一 絵本の世界』展のパンフレットのために書いた文を転載します。
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2018年の春、パリ郊外のクラマールにある児童図書館 ”LaPetite Bibliothèque Ronde” (小さなまるい図書館)からエスパス・ジャポンに、長い間同館が保存していた紙芝居 ”Un garçon venu de la mer” (海からきた男の子)の原画の作者について問い合わせがありました。
この紙芝居は45年前に、堀内誠一さんがこの図書館に集まる子どもたちのために描いたものでした。この原画の再発見を機に同図書館はいま、フランスでは知られていない絵本作家 Seiichi HORIUCHI に関するさまざまな催しを企画しています。
1974年から家族とともにパリ郊外のアントニーに住んだ堀内さんは、同年に創刊された『いりふねでふね』と、それに続く日本語新聞 ”ovni” の基本を作ってくれた人です。企画から取材、絵入りの原稿、手書きの見出し、広告のデザイン、印刷のための版下づくりから製版まで、すべてにわたって手を動かしていた堀内さん。その仕事ぶりは驚くほどの速さで、しかもじつに的確なものした。
エスパス・ジャポンでは、小さなまるい図書館の企画に合わせ、多彩な堀内さんの仕事の一端を、絵本を中心に展示・紹介します。
堀内さんの絵本。
小さなまるい図書館が保存していた紙芝居『海からきた男の子』は、堀内さんが単身パリ滞在中だった1973年に描かれ、直接図書館に寄贈されていたため、家族もその存在を知りませんでした。画面からあふれそうな勢いを感じさせる作品は、デンマークの民話をもとにしたもので、後に改めて描きなおした紙芝居『海からきたちからもち』として刊行されています。堀内さんは他にも『こぶたのまーち』や、『したきりすずめ』『ながぐつをはいたねこ』などの紙芝居を制作していますが、どれも画面から離れて見る子どもたちにわかりやすいよう、太めの輪郭線で描かれています。『ながぐつをはいたねこ』はやはりアントニー滞在中に、クラマールの子どもたちのために黒1色の描線で描かれたものですが、後に堀内さん風に彩色されたカラー版が発行されています。
堀内さんの絵本といえば、『たろうのおでかけ』のたろうや『ぐるんぱのようちえん』のぐるんぱ、『ロボットカミイ』のカミイといった、主役たちの姿が思い浮かびます。これらの絵はそれぞれの話によって違った方法で描かれながら、どれもが子どもたちの心にいつまでも残る魅力を持っています。
白地に軽快な線で描かれ、ほっぺたに赤い丸の付いたたろうと、筆触を生かして描かれた象のぐるんぱは、ほぼ同じ時期に制作されました。堀内さんの多彩な絵は時期によって画風が異なるのではなく、テーマや話の内容によっていちばん適切な描き方を選んでいたのです。画材もパステル、カラーインク、フェルトペン、水彩、アクリル絵具と、絵によって自由自在に使い分けていました。
コンパスと定規を使った幾何学的な絵の『くるまはいくつ』、平面的な色面で描かれた『ちのはなし』や『てとゆび』などの科学絵本では、明快な図解で原理や仕組みがわかりやすく説明されています。
いっぽう画面全体を水彩で描いた『こすずめのぼうけん』では、美しい自然の風景がみごとに表現されています。こすずめが迷いながら飛んだ川原や茂みのある草原などは、原作者エインズワースが暮らしたイングランド北部の田園風景。おそらく堀内さんはこの地方を旅行したときの観察と印象をもとに、こすずめの視点から描いたものと思います。
また『おひさまがいっぱい』で描かれている、起伏のある緑の中に赤い瓦屋根の家が点在する情景は、堀内さんがたびたび訪れた南仏によく見られる景色です。パリ近郊の住宅地にも多かった赤い瓦屋根は、近年どんどんその姿を消しているのですが。
雑誌のアート・ディレクションやレイアウト、ロゴ制作などのデザインの仕事でも、絵本やイラストレーションの仕事でも、堀内さんはそのテーマの本質を捉えて、それをぴったりした形で表わすことのできる天才でした。
『ことばのえほん』『かずのえほん』や『マザーグースのうた』で堀内さんとコンビを組んだ谷川俊太郎さんは、『絵本ナビ』のインタビューの中で、「…渡せばそれでできちゃう、本当にそんな感じでしたね。僕が訳したものを出版社の方が堀内さんに送ってくれるだけ。後はそれを全部レイアウトして順序も決めて、それで1冊目、2冊目、3冊目って彼が作ってくれる。彼は編集者としての才能もすごいんですよ…」と語っています。
堀内さんが描いたぐるんぱやたろーたちは、これからもたくさんの子どもたちに、世代を超えていつまでも愛されていくことでしょう。
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堀内 誠一(ほりうちせいいち)
1932年東京生まれ。14歳で伊勢丹宣伝部に入社。
1970年創刊の雑誌『an・an』でアート・ディレクターを務め、その斬新な誌面づくりで脚光を浴びる。
1950年代末から始めた絵本の仕事でも、多彩で卓越した才能を発揮。『たろうのおでかけ』『ぐるんぱのようちえん』『おひさまがいっぱい』など、多数のロングセラーを残している。
1973年、パリに滞在してフランスやヨーロッパ各地の絵本研究。翌1974年から1981年まで 家族ともにパリ郊外アントニーに在住。各地を旅行し、絵本と西洋美術への見識を深める。その間も精力的に絵本制作をしながら、日本の雑誌にパリや旅についての絵入りのエッセーを寄稿。また、ベルナール・ベローとともに在仏日本人向けの不定期刊のミニコミ誌『いりふねでふね』、後に『ovni』の発刊に尽力した。
絵本以外の著書に『父の時代 私の時代』『パリからの旅』『堀内誠一の空飛ぶ絨毯』『ぼくの絵本美術館』、編著書に『絵本の世界・110人のイラストレーター』など。
1987年8月、親交の深かった澁澤龍彦逝去の12日後に死去、享年56歳。天才の早すぎる死だった。
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4人家族のわが家がアントニーに住み始めたのが、1987年の秋。夏に堀内さんが亡くなった年でした。上記の展覧会や催しのために東京から来た、堀内夫人路子さん、長女の花子さんと、堀内家が過ごしたアパルトマンに行ってみた。アントニーの中心部はずいぶん変わったけれど、町外れにある建物と周りの風景はほぼ当時ののまま、でした。(宏)
2017年5月4日木曜日
FNはNON、でも・・・・。
寒い日が続いています。 昨夜は決選投票に残った大統領候補2人のテレビ討論があった。でも、残念ながらこれが程度の低い罵り合い。
この選挙の投票所 になった、ウチの隣にある小学校の前の掲示板です。
ル・ペンのポスターはどこでもたいてい破られている。 |
第1回投票のときは11人が並んで賑やかだったけれど、今は2枚だけが雨に打たれている。
2002年、ル・ペンの父の方が決戦に残った時は、きらいでもシラクに投票ということで、90%近い得票でシラクが圧勝していた。でも今回は、マクロンの、うまくやって経済を活性化させ国を豊かにするという主張に対する疑念が強い。既存の政治体制との決別を唱えるマクロンは銀行出身のテクノクラートだし、すんなり結論まくろんさん、よかったね、とはいかないかも。
もちろんル・ペンにはぜったい入れないけれど、マクロンにも投票したくないと、白票や棄権する人がかなりの数になりそう。毎日モノを作ったり、売ったりして働く人々とは関係なく、少数の大金持ちの思惑でおカネが動き、世界中の人々の暮らしが左右されるグロバリゼーションとネオリベラリスムへの不満・反発は大きいのです。
7日の日曜の投票で新大統領が決まります。
と、こっちの国のことを言っていたら、日本の困った首相が、2020年憲法改正を目指すというニュース。何としても阻止しようね。(宏)
2017年1月10日火曜日
リュクサンブール庭園、ファンタン・ラトゥール、花。
きゅんと冷え込んで、抜けるような青空が広がった日の朝、ファンタン・ラトゥール展開催中のリュクサンブール美術館へ。
凍結しているかなと思っていた庭園の池はさほどでもなく、端っこの方に薄氷が残っている程度だった。
0度近い気温だから、花の無い花壇の周りの椅子には誰も座っていない。
でもオランジュリの前の陽だまりには、何人もの人が日向ぼっこしています。
ファンタン・ラトゥールといえば、ゾラやマネを中心にモネ、ルノワールなどの印象派の画家たちが集まるようすを、ぜんぜん印象派じゃない表現で描いた人というイメージ。で、もちろんそのオルセー所蔵の『バティニョールのアトリエ』も展示されているし、音楽家たちを同じように描いた絵もある。
でも、こういう絵よりも家族や親しい人の肖像画が、ずっと生き生きしている。
そして、花の絵。生活のために500点以上も描いていたというのだけれど、これがいいのです。描くことがうれしくてたまらない、という感じが伝わってくる。
じつは花の絵というのはどちらかというと興味がなかったのだけれど、ホソキさんが花の絵の見方を変えてくれた。ルドンやボナールの花の絵が好きで、このところ彼自身も花をよく描いているホソキさん。そのホソキの花もいいのです。
ホソキさんからの賀状の花束です。ⓒ細木由範 |
美術館を出てムッシュー・ル・プランス通りのヴェトナム料理屋へ。
2017年1月4日水曜日
靄の日々。
厳寒というほどではないけれど、年末から肌寒い日々が続いている。白々とした景色の中を13区の中華街のはずれに漢方薬を買いに出た。
パリでは2日がもう仕事始めで、学校も3日から新学期。けっこう混んでいるバスでポルト・ドルレアンへ出てトラムに乗り換えます。
ここからポルト・ディタリーへ。 |
ポルト・ディタリーの交差点のカフェにテラス席が出ているけれど、誰もいない、と思ったらカップルが一組。この寒空に勇気?あるなぁ。
インフルエンザも流行ってるのに。 |
幅広いイタリー大通りの半分が工事中。郊外各所で進行中のグラン・パリ計画のひとつで、メトロ14号線をオルリー空港まで延長する工事です。
ふつうのメトロは時速25km、14号線は45km。 |
ポルト・ドルレアンのバス停から。 |
ポルト・ドルレアンに戻るころには、手袋の中の指先がジンジンしてきました。(宏)
レアールのトナカイと兵士。
2016年12月25日日曜日
さようなら石神井公園。
いつも日本に戻った時の拠点にしていた石神井の家を処分してしまいました。特にここ数年、(由)は年の大半を、(宏)も秋から冬には、バニューよりもこの家で過ごすことが多かった。
もしかしたらもう更地になってるかも。 |
家具も道具もすべてを片付けるのはけっこうたいへんだった。古いテーブルは(宏)の母親の実家だった秋田の温泉ホテルの食堂で使っていたもの。この大きくて重いテーブルは、川越のわたぬきさんの蔵屋敷に落ち着き、スコットランド製の椅子は、駿河台のエスパス・ビブリオへ、という具合。
それぞれ収まるべきところに収まって、よかった。 |
家の近くの三宝寺池、その東の石神井池の風景ともおさらばです。
水鳥の楽園、三宝寺池。 |
釣り人のいる石神井池。 |
石神井公園は都内では珍しい静かでのどかなところ。お世話になりました。
石神井川のシロサギさん。 |
でもそれより残念なのは、近くの越中屋の豆腐が食べられなくなったことかな。
・・・・というわけでバニューの家に戻りました。さぼり気味だったこのブログ、本来の「ばにゅうのやど」報告に努めまーす。(宏)
2016年10月6日木曜日
11月19日「パリの21世紀建築」のトークショー。
駿河台エスパス・ビブリオでのトーク・ショー、続いて次回のテーマは「パリの21世紀建築。変貌する街を考える」です。
ユネスコ世界遺産のセーヌ河岸一帯だけでなく、パリの中心部は歴史遺産として保護されている建物も多く、景観保全の上からも新しい建築はわずかな例しかありません。
そんな中で、1970年代末に造られた「フォロム・デ・アル」の改築が完成しています。
地下広場を囲む低層の建物を大屋根が覆っている。 |
ブーローニュの森に建てられたのが「フォンダシオン・ルイ・ヴィトン」。ガラスの曲面を組み合わせたフランク・ゲーリーによる建物は、かなリ奇抜な建築。建築に奇抜さはいらないと思うけれど、ここは遊園地のような楽しさがある。
ルイ・ヴィトン財団の現代美術館。 |
パリ市内外の再開発や新しい建物のプロジェクトの設計は、ほとんどが公開コンペになっていて、田根剛、藤本宗介など多くの日本人建築家の案も選ばれています。
都心の老舗百貨店サマリテーヌの改装・改築はSANAA。かつてルノーの工場があったブーローニュ・ビヤンクールのセーヌの中州スガン島に間もなく完成する音楽ホールは坂茂の設計です。
坂茂によるスガン島の「シテ・ミュージカル」。 |
歴史的な建物が少ない周辺区、それも鉄道用地や外周道路沿いの倉庫街だったところに、新しい街が次々に生まれている。
そして今、《グラン・パリ計画》の名の下に、郊外も含めた交通網の整備と都市開発が急速に進められている。郊外に出ると、すぐに一面の緑の森や畑に囲まれているパリだけれど、大きくその姿を変えようとしている。
パリは2024年のオリンピック開催に立候補しているのです。(宏)
2016年10月2日日曜日
10月22日、またトークショーです。
駿河台の図書室カフェ、エスパス・ビブリオでのトークショー、今回はオーギュスト・ぺレによって再建された都市、ユネスコの世界文化遺産にも登録されているル・アーヴルの話です。
ル・アーヴルは、パリを流れるセーヌがノルマンディを抜け、英仏海峡に出る河口の港町。モネが『印象ー日の出』を描いた、印象派発祥の地です。
モネが描いた場所には巨大なクルージング船が停泊していた。 |
第二次大戦の末期、ドイツ占領下の街はイギリス軍の空爆で徹底的に破壊されてしまう。戦後すぐに政府の要請で、〈コンクリート建築の父〉と呼ばれたペレが廃墟と化した街を再建します。
ペレが設計した集合住宅の一室です。 |
戦災を免れた倉庫群がショッピングモールに。 |
この夏、オヴニーに記事を書いたのだけれど、掲載できなかったたくさんの写真を見ながら、フランスのほかの町とは違うおもしろさがあるこの港町を紹介します。(宏)
トークショーの申し込みはクリックしてエスパス・ビブリオへ。
2016年10月1日土曜日
ノーカーデーと中古車規制。
長い間ごぶさたしていたら、すっかり秋になってしまいました。
さて、9月の最終日曜日、パリの都心部からクルマの走る姿が消えました。
さて、9月の最終日曜日、パリの都心部からクルマの走る姿が消えました。
といってももちろん、パトカー、消防車、救急車などの緊急車両とバス、タクシーは例外で、一般のクルマやバイクは11時から18時の間、全面通行禁止というもの。
パリ市の排気ガス削減キャンペーンの一環です。セーニヌ河岸道路も自転車ものんびり。 |
止まっているのはタクシーです。 |
2016年6月7日火曜日
増水したセーヌ。
いつもなら爽やかな日々が続く4月から5月、今年はやたら寒くて毎日雨ばかり降っていた。で、6月の初めには、セーヌの上流に注ぐロワン川やヨンヌ川が氾濫。パリのセーヌも水かさが増して、洪水かという騒ぎ。左岸のセーヌ沿いの地下を走るRER・C線は運行停止、メトロ4号線のサン・ミシェル駅も閉鎖され、ルーヴルやオルセー、ケ・ブランリの美術館も万一の事態を想定して休館に。
いちばん水位が高くなった3日、どんなようすか見に行きました。
岸の遊歩道はすっかり冠水。 |
河岸の散歩道や自動車道路はすべて冠水していて、ポン・ヌフから降りるシテ島西端の公園スクアール・ヴェール・ギャランも水没している。
水没したシテ島の先端。 |
水位は橋桁近くまで上がっていて、遊覧船や川船は係留されて動けない。猛スピードで流れる木材やプラスチックの破片を、消防の小さなモーターボートが拾い集めている。
チュイルリーとオルセーを結ぶ歩道橋の下です。 |
オルセー河岸。水際まで降りて流れを見る人たち。 |
でも河岸にはブキニストの屋台が出ているし、ほとんどの橋はふだん通りに車も走っていて、テレビのニュースが騒ぐほどのこともなく、4日 からは水も引き始めています。
これも 地球温暖化の影響だろうけど、やれやれ。(宏)
2016年4月24日日曜日
静かなソー公園。
先週、ウチの庭のサクランボの花が満開だった。
真っ白。でも絢爛。 |
昼過ぎにアントニーの歯医者に予約があったけれど、その前にソー公園を抜けて桜のようすを見ていくことに。
平日昼前の公園は人もまばら、いつもながら空が広くて気持ちがいい。
飼い主はどんどん先へ行っちゃって。 |
ル・ノートルの世界です。 |
ここからフミオが小さいころ首を出して抜けなくなった。 |
運河の脇の森の中の桜の園。ピンクの八重桜は何本かが開花していたけれど、花見にはまだ早い。数人しか人もいない。
膨らんだ蕾がほんのり赤い。 |
運河脇には走る人たち。もう一つの白い桜の園はもっと遅くて、誰もいない。
せっせと走る人たち。 |
爽やかな白い桜の園。 |
芽吹いたばかりでまだ裸の並木を抜けて、アントニー側へ出ました。
まだ寂しい並木道。 |
歯医者でアマルガムを詰め直してもらってから、アントニーに住んでいたころになじみだったカフェで昼ごはん。昼どきのラッシュが終わったカフェものんびり。ゆっくりゆっくり(まずいわけじゃなく麻酔が残っていたから)時間をかけてステーキを平らげました。
1928年創業のカフェ・デ・スポール。よくある名前だ。 |
ウチに帰ったら、冷たい雨が降ってきた。
風情はあるけどちょっと寒い。 |
雨に打たれた桜が散り始めていました。(宏)
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