◉pen/2007年8月掲載記事の再録。
岡本太郎の見た日本 赤坂憲雄著
もう、ウン十年も昔のことだけれど、仲間数人と南青山の岡本太郎の家に、デザイン学生相手の講演を頼みに行った。
機嫌よく迎えてくれたタロさんは、「ボクもイスをデザインしたばかりだ。ただし、座ることを拒否するイスだ。座ってみろ」という。そしてシリが痛くて座れない我々を見てうれしそうにいった。「デザインは心地よいものを作るのが目的だろうが、そんなものはツマラナイ。ボクは“いったい何だこれは!”と人がいうものを創るんだ」と。
話に熱が入るとアタマが沸騰したようになって、言葉のほうが追いつかず、もどかしげに目を剥いて話し続けるのだった。
岡本太郎は。一九二九年、18才でパリに渡り、四〇年に戦争のため帰国する。その間、カンディンスキー、モンドリアン、アルプ、ブルトン、ブラッサイ、キャパ、ツァラ、バタイユらと交遊し、30年代の先鋭的な前衛芸術活動を経験した。
さらに彼は、パリ大学のマルセル・モース教授のもとで民俗学を本格的に学んでいる。
戦後、岡本太郎は、龍安寺の石庭に代表される「日本の美」に背を向け、縄文土器こそ本来の日本人の根っこにあるものだという論を発表する。
この本は、その「縄文の発見」の後、東北や沖縄を旅しながら、日常の中に残っていたナマハゲだのイタコだのといった土俗的で力強い祭り・風習を探し歩いた岡本太郎の姿と、その考え方のモトは何だったのかを丹念に追ったもの。
縄文に通ずるものを求めた岡本太郎の旅は、トロカデロの人類博物館でアフリカやオセアニアの民族資料に感動した経験があってのものだった。
生前、かなりヘンなヤツとして扱われることも多かった岡本太郎は、まるで獣のような嗅覚を持つ、個性的な民俗学者であり、思想家だったのです。
「ピカソ亡き後、世界に残るただ一人の天才」を自称していたタロさん。もし戦争なんかなくて、そのままパリで活躍していたら、ほんとうにそうなっていたような気がする。これほど「日本」にこだわることもなく。(宏)
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