14区のダンフェール・ロシュロー広場の脇から西へ伸びるダゲール通りは、八百屋や肉屋、魚屋、チーズ屋などが店先に屋台を並べる賑やかな商店街です。
630 メートルほどの長さの通りに、パン屋やワイン屋はそれぞれ五、六軒づつある。カフェやレストランは数えきれない。それなりに知られた店もあるけれど、観光 客がわざわざ行くような街ではない。どこも日常的で値段もそんなに高くないので、誰かに呼ばれたときに立ち寄ってワインを買ったり、モンパルナスで映画を 観た後にカフェでひと休みしたりする。
だいぶ前のこと、たまには家族でメシを食おうということになって、この通りの奥のほうにあるビストロに向かった。ところが、その店の手前の角から、道路一面が砂場状態になっている。砂の上には大きな反射板や照明用のライト、レールに据えられた撮影カメラ……映画のロケらしい。
通行人は道の両脇の隙間を歩いている。見物人もちらほら。砂の上を若い人が動き回っているけれど、なんとなくのんびりムードの撮影現場です。
目指すビストロの斜め向かい88番地には、映画監督アニエス・ヴァルダの自宅兼仕事場がある。低い建物の壁や窓枠がエンジと紫で塗られ、扉はそれに黄緑が加わった奇妙な三色シマシマ模様。
独特の手法でユニークな視点の映画を作る彼女は、前にも商店街の人たちを撮った『ダゲール街の人々(原題ダゲレオタイプ)』を発表している。この砂場もやはり彼女の新作の撮影だった。
前にも2、3度見かけたけれど、目の前にいる黒髪のおかっぱ頭の女性がそのアニエスで、野次馬のわれわれに、にっこり「ボンソワール」と挨拶してくれる。少ししゃがれた低い声。クリクリした目玉の、じつに気取らないおばあさんです。
さて、このダゲール通りとボクの付き合いのきっかけは、金子光晴の『ねむれ巴里』(中公文庫)だった。1929年の暮れにパリに来た光晴が、翌年からほぼ二年間にわたるパリ滞在の大半を、夫人、森三千代との過ごしたのがこの通りの22番地なのだ。それがどんなところかを確かめに歩いたのが始まりで、どの店もエラそうじゃないのが気に入って、今はパリでもいちばん安心できるなじみの街になっている。
22番地には「リオンソー」というホテルがあって、シャワー付き一泊550ユーロ。今のパリでは最も安い部類です。当時は長期滞在用の半分下宿屋のようなホテルが多く、ここもそういう宿だった。
『ねむれ巴里』を読むと、びんぼう暮らしを標榜しているボクなんかじつはまるで優雅なものだと思わざるを得ない、凄まじい日々の記録である。
光晴夫妻と入れ違いで1931年の末には、林芙美子がこの街にやって来る。彼女が落ち着いたのは、光晴の宿のすぐ先を曲がったブーラール通り10番地。
翌年、数ヶ月をロンドンで過ごした後に、芙美子は「やっぱり前の古巣に帰りました。ただし街は同じでも宿は違います。」(『下駄で歩いた巴里』岩波文庫)と、ダンフェール・ロシュロー広場に面したホテル「フロリドル」に部屋を取っている。ここも現存する1ツ星ホテルで、ヴァルター・ベンヤミンが一時滞在していたという。その後芙美子は、ダゲール通り22番地、光晴夫妻のいた宿にも移っている。「階下が酒屋さん、左隣が毛皮屋、右隣がパン屋、お向こうが馬肉屋、私の部屋の窓から金色の馬の首の看板が馬肉屋の軒に出ているのがよく見える。」階下の酒屋はカフェに、毛皮屋は小間物屋に変っているけれど、パン屋と馬の首の看板の馬肉屋はいまも健在です。
さて、出来上がったアニエス・ヴァルダの映画は、『浜辺のアニエス』という。ブリュッセル生まれのアニエスが、家族と行ったベルギーの海岸と、戦争で一家が避難した南仏セトの海辺での思い出をスタートに、実写映像と、映画や記録映像の断片、写真などのコラージュで、自身の生活と行動、映画との関わりを見つめ直した自伝映画だった。
ヌーヴェル・ヴァーグの同志だったゴダールやトリュフォー、家族や友人、漁師や近所の人たちとの交流の思い出が淡々と語られる。
『シェルブールの雨傘』で知られる夫ジャック・ドゥミの回想はさすがに泣かされる。彼の墓はダゲール通りのすぐ裏のモンパルナス墓地にあるのです。
ダゲール通りに敷かれた砂は、もう60年近くもここに住むアニエスが、ジャック・ドゥミとの共有空間だったこの場所を、思い出の浜辺になぞらえたもの。
映画では、このダゲールの浜辺のソファで語るアニエス、浜辺のオフィスで働く人たち、突然の雨にあわてて撤収するようす、などのシーンが見られる。
砂浜の無くなったダゲール通りは、今日もふつうの人々のふつうの街です。(宏)
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