2011年2月1日火曜日

ヌレエフとタルコフスキーの墓。

駅前から104番のバスで“PISCINE”下車。

















ウチに滞在中の花ちゃん(堀内花子さん)がヌレエフの墓を見に行くというので、その友人の三上さんも誘って、RER・C線のサント・ジュヌヴィエーヴ・デ・ボワへと出かけた。
町外れの木立につつまれた広い墓地には、約5200の墓に1万人を超えるロシア人が眠っている。これは墓地全体の6割強にもなるそう。
ロシア革命後に亡命してきて、パリでお嬢サマ教育学校を経営していた何とか公爵夫人が、1927年にロシア人亡命者のための養老院“メゾン・リュス”を開設、その後墓地の横にはロシア正教会も建てられて大盛況、この市営墓地が一気にロシア人墓地化したのです。

十字架と植木、フタなし、というのが本来の正教の墓。

















墓地の入口で 案内板を見ていたら、数人のグループを連れたおじさんが、よかったら一緒に、と声をかけてくれた。おかげで革命前後からのロシアとフランスの歴史や、正教の墓の様式などをベンキョーしながらの墓巡り。浮彫りのある木の十字架は、二本の横棒の下に斜めの棒もついた「八端十字架」。てっぺんに青いタマネギを載せたのもある。墓に白樺などの樹木を植えるのが習慣です。

ドン・コサック(カザーク)兵の墓。
















元がもとだから、ロマノフ王朝の関係者や白軍兵士の墓が多い。革命後は、ロシア構成主義の彫刻家ぺヴスナーや、ノーベル文学賞のブーニンなど、レーニン/スターリン体制から逃れて来た芸術家たち。

第二次大戦での戦死者たち。















 第二次世界大戦で、ロシア人部隊や外人部隊、それにレジスタンスとしてナチと戦った人たちの墓も多い。タクシー運転手組合の区画もある。かつてパリのタクシーはロシア人と決まっていたのです。

これがヌレエフの墓。赤いおじさんが案内してくれた。











バレーシューズが捧げられていた。





















ヌレエフの墓は、ド派手なモザイク製の絨毯で覆われている。ヌレエフ以外にもオペラ座バレエのダンサーがたくさん。ヌレエフの前に芸術監督だったリファール、ヌレエフとも踊ったエトワールのニーナ・ヴィルボヴァ ‥‥。
タルコフスキー夫妻の墓。
 














ここの人気者はもうひとり『惑星ソラリス』の監督アンドレイ・タルコフスキー。意地を張って帰国しなかった彼は、ここに埋葬するよう希望したらしい。小さな捧げものがいくつも置かれています。

夕方どんどん冷え込んで、ほんとにロシアに来たみたい。バス停前の“Centre Nautique” に逃げ込んで、泳ぐ人を眺めながらすっかり固まった身体を温めました。(宏)

3 件のコメント:

  1. Kyoko2011年2月2日 2:03

    まあ、こういう所があるなんて。本当にありがたいですね、こうした所を案内していただけるなんて。それにしても、ヌレエフのお墓にかえてある絨毯。暖かそうですね。ときどき新しいのに取り換えるのかなあ、雨が降ったらどうするのかなあ、なんて思いながら見させていただきました。

    返信削除
  2. きょうこさん、絨毯はモザイクで作られているので、ヌレエフは濡れぬえふ。ご心配なく。(宏)

    返信削除
  3. 僕のブログにコメントありがとうございました。さすがよくご存知ですねえ。日を前後してお互い偉人のお墓参りしてました、気が合いますねえ。ヌレエフのお墓は見てみたい。

    返信削除