2015年3月20日金曜日

"smoke" mintdesigns のコレクション。

  
素材やプリントにこだわって、流行にとらわれない生活に生きる服を創り続けてきたミントデザインズの秋冬コレクションを見ました。
会場は恵比寿ガーデンホール。
異素材を組み合わせる工程の加工で模様を入れたり半透明にするなど、さまざまな工夫で作られた服は、ユニークで、でもシンプルで着やすそうでかっこいい。
靴もいい。
スカーフもいい。
ぴょこんとお辞儀してサッと引っ込んだ2人。
mintdesigns の勝井北斗くんとは彼がウンと若いころから、八木奈央さんとも彼らがロンドンのセント・マーチンズの学生だった時代からの付き合い。そのころ2人はよくパリにやって来て、展示会を見たり、本屋やミュゼを回ったり、課題制作のための生地やボタンを探し歩いたりしていたっけ。
満員の観客が帰りの会話で、口々に「すっごくよかった!」と言ってました。(宏) 


2015年3月16日月曜日

ル・コルビュジエとその時代。トークショーⅡ期4回目の報告。

エスパス・ビブリオでのトークショーⅡ期最後の回も、寒い夜なのにたくさんの皆さんに来ていただきました。
ル・コルビュジエの建物、とくに近年公開された彼の自宅アトリエを中心に、1920〜30年代の近代建築とアール・デコについて話しました。
一昨年パリで開かれた1925 アール・デコ魅惑の世界展」では、1920年代後半から30年代に造られた建築、車や船舶、服やアクセサリー、玩具、ポスターなどデザイン全般の作品が展示されていた。第一次世界大戦後の1925年にパリで開催された装飾美術・近代産業国際博覧会を契機に、第二次大戦が始まるまでのつかの間の平和な時代に流行したアール・デコは、ノスタルジックだけれど粋で、どこか暖かみも感じさせ、今見ても魅力的です。
鉄筋コンクリートによる建築が一般的になったこの時代、パリにはアール・デコ建築がたくさん建てられる。そして同時により機能的な近代建築も数多く造られました。
アンリ・ソヴァージュによるヴァヴァン通りの階段状の集合住宅や、”蜂の巣”の裏手サイダ通りのHBM(低家賃住宅)は、第一次大戦前の、早すぎたアール・デコ建築です。
ヴァヴァン通りの集合住宅 (1912)。
15区サイダ通り(rue de la Saïda)のHBM (1913)。
パリで1920〜30年代の建物を見て歩くのは愉しい。外周通りに並ぶ公共集合住宅のほとんどがこの時代の建築だし、学校もこの時代のものが多い。
また、モンスリ公園に面したリュルサ設計のアトリエ住宅やペレによるオルロフのアトリエなど、アトリエ建築にもいいものがたくさんあります。
ル・コルビュジエ以外の建築家では、第二次大戦後のル・アーヴル復興計画やランシーの教会で有名なオーギュスト・ペレ。そして自身のアトリエと友人の芸術家たちの家など、美しい個人住宅の設計で知られるロベール・マレ・ステヴァンスの2人に注目です。
リュルサ設計のアトリエ住宅 (1927)。
14区カッシーニ通りの集合住宅 (1930)。
P・シャローの”ガラスの家”(1932)。
13区キュス通りの小学校 (1934)。
パリ市近代美術館・パレ・ド・トーキョー(1935)。
ペレのアトリエがあったレヌアール通りの集合住宅 (1932)。
16区マレ・ステヴァンス通り (1927)。
 さて、ル・コルビュジエです。
 パリに建てられた最初の建物が、モンスリ公園西の路地スクアール・モンスリにある"オザンファン邸"。雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』を、ル・コルビュジエと一緒に創刊したピュリスムの画家オザンファンのアトリエ住宅です。
オザンファン邸(1924)。屋根は後年に変えられている。
オトゥイユの路地に建つ "ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸" は、2軒つながりのアトリエ住宅で、ジャンヌレ邸は現在ル・コルビュジエ財団の事務所と資料室に使われ、奥のロシュ邸が公開されています。吹き抜けのホールを挟んで、生活空間と客を迎え入れるスペースが分離され、2階の通路で結ばれている。ピロティ上のサロンのスロープや、両サイドから吹き抜けを見下ろせる構成、小さな屋上庭園など、いろいろ工夫があって楽しい家。ちょっと住んでみたくなる。
ラ・ロシュ邸 (1923〜25)。 10 square du Dr. Blanche
 そして、パリ西北のセーヌ沿いの町ポワシーに建つ代表作が "サヴォワ邸" です。細い柱で支えられた白く平たい建物が、丘の上の広い緑に浮かんでいる。
この大きな家は陸屋根の雨漏りが多くて、建主のサヴォワ夫妻は短期間しか住まなかったらしい。第二次大戦中はドイツ軍の宿舎や武器庫に使われ、戦後は廃屋になっていた。きれいに改修された今は、光に満ちた気持ちのいい空間に、ル・コルビュジエ詣での建築ファンがあふれいます。
サヴォワ邸(1928)。
これらの家を見ると、 "近代建築の5要点" として挙げた彼の理想が素直に伝わってきます。「ピロティ」「自由な平面」「自由な立面」「水平連続窓」「屋上庭園」という5つのポイントです。一般に ”近代建築の5原則”と訳されているけれど、壁が建物を支える石造りと違い、鉄の構造体が支えるコンクリート建築がこれらを可能にする、ということ。"原則" という訳語はおかしい。例えば縦長の窓があったら原則逸脱で近代建築ではない、ってことになってしまいます。
さて、セーヌのオステルリッツ河岸に、ルイーズ・カトリーヌ号という船が係留されています。1915年にベルギーのリエージュで建造され、1920年までルーアン=パリ間の木炭運送に使われていたペニッシュ(川船)で、ル・コルビュジエが救世軍の依頼で、160のベッドを持つ宿泊所と無料給食所に改修したもの。1930年から94年まで、家の無い人たちを受け入れてきた。その後老朽化して放置されていた船が、歴史建造物の指定を受け、ル・コルビュジエの船として修復工事が進められている。ただし、復元するだけでなく、遠藤修平の設計でデザインや建築の展示場として改装されるらしい。
改装中の La peniche Louise-Catherine。
パリ国際大学都市シテ・ユニヴェルシテールのスイス館は、ル・コルビュジエ最初の公共建築です。ピロティから入る地上階と1階(日本では2階)の一部屋が公開されている。ペリアン設計のロッカーや本棚のある明るい部屋は、いかにも学生寮らしく簡素で好感が持てる。同じ大学都市のブラジル館 (1959)は、ルシオ・コスタとの共同設計。どうやら弟子のコスタの設計に、大先生はあーだこーだと注文をつけたらしい。
新国立図書館フランソワ・ミッテランの南に建つ救世軍本部宿泊施設もル・コルビュジエです。ブロックガラスによる立方体の付属建物など一部を見ることができます(要予約)ただし、ここに寝泊まりしている人たちに決してカメラを向けたりしないこと。
スイス館と救世軍宿舎は、後のユニテ・ダビタシオンの原型になっている。
救世軍の建物に近い外周通り沿いには、プラネクス邸(1928) があって、今もプラネクスさんの子孫が住んでいるらしい。外装がくたびれていて少々ザンネン。
パリ国際大学都市のスイス館 (1930)。
救世軍本部宿舎 (1933)。
16区の南西はずれ、パリとブーローニュ・ビヤンクールの境のナンジュセール・エ・コリ通りに建つル・コルビュジエ設計のアパルトマンに、彼自身の自宅アトリエがある。 
通りの向かいのウニの殻みたいな覆いはスタッド・ブーアンです。この辺りから、フランス・オープン・テニスの会場ロラン・ギャロスにかけての住宅街には、クック邸などル・コルビュジエによる4棟の家をはじめ、ペレやマレ・ステヴァンス、リュルサなどが設計した1920年代の家が集中しています。
左にリチォオッティが改装したスタッド・ブーアン。
9階建ての1階から6階 (日本では2〜7階) は、各階 2、3戸ずつの集合住宅。この場所が気に入ったル・コルビュジエは、設計料の代わりに上部2層を取得し自身の住居とアトリエとしたのです。
24 rue Nungesser et Coli。
ラ・ロシュ邸同様、ここもル・コルビュジエ財団の手で修復され一般公開(土曜のみ)されている。インターフォンで来意を告げてドアを開けてもらい、エレベーターで6階 (日本の7階) へ上り、階段で7階へ。7階にサロン、寝室、キッチン、浴室などの生活空間と、吹き抜けのアトリエ。螺旋階段で結ばれた8階には来客用の部屋と屋上庭園という配置です。
ブロックガラスで覆われた狭い外廊下。
明るいサロン。
仕事部屋の写真。
明るいキッチン。
明るいシンク。当時の蛇口もいい。
明るい浴室。
明るい読書コーナー。
ピュリスムの画家でもあったル・コルビュジエのアトリエは、東西のテラスからの光が差し込んでいる。北側の壁はコンクリートではなく、隣の建物の外壁と思われる石壁です。ル・コルビュジエはこの壁が好きだったようで "語りかける石、毎日の友だち”と言っている。”住宅は住むための機械である”と宣言した近代建築家のちょっと意外な一面です。
アトリエは6m×12m、高さは3m50。
使用人室の、ドアを兼ねたタンスをはじめ、本棚、食器棚などの家具やサロンのソファや椅子はすべてシャルロット・ペリアンのデザインです
使用人室の稼動タンス。
東側のテラスに出るとスタッド・ブーアンがぶわーんと横たわっている。この競技場はル・コルビュジエのアパルトマンより古く、1925年からここにあったのだけれど、リュディ・リチオッティの
やたらに自己主張の強い改装で、インパクトある眺望になりました。
右手に PSGの本拠パルク・デ・プランスが見える。
北側に中庭があり、建物の平面は凹型です。
螺旋階段で8階へ上り屋上庭園に出ます。
らせん階段と通路の水平連続窓。
庭園というほど広くはないけれど空が広い屋上庭園。
7区のセーヴル通りに事務所を構えていたル・コルビュジエは、奥さんとともに人生の最後までここに住み続けました。どの部屋も光にあふれた気持ちのいい住居です。ル・コルビュジエが設計した個人の家は、どれも住んでみたいな、と思わせる魅力がある。
ただ、彼が理想として提唱した "輝く都市” には、あまり賛同できない。1925年に発表した "ヴォワザン計画は、パリの右岸の建物を取り払い、広い空間に高層ビルを建てるというものだった。幸い計画だけで終わったこの考えを、彼はブラジルやインドで実現し、なんとも殺風景な街を造っている。ペレが設計したル・アーヴルも同類で、広すぎる街路と均質な建物群には、街としての楽しさがありません。
シャイヨー宮の Cité de l'architecture & du patrimoine(建築・歴史遺産センター)にマルセイユのユニテ・ダビタシオンの住居ユニットのひとつが展示されている。建物をひとつの都市になぞらえ、ユニットを組み合わせて構成した巨大な集合住宅の一単位です。しかしこの機能的な住居の天井の低いこと、階段などの巾の狭いこと。
これらの大きな建築の欠陥は、住む人たちの多様性を無視し、人を計量化した均質な単位と考えてしまっていることだと思う。
ユニテ・ダビタシオンの室内。
ロンシャンの教会は芸術作品としてきれいです。ここに住むのはたぶん神様だろうけどね。 
ロンシャンの教会。
ビル風にあおられながら、湾岸のビル群や六本木ヒルズの下を歩くときの惨めな気分、侘しさを、ル・コルビュジエを信奉する開発者や設計者たちは感じたことが無いのだろうか。 
建築って、その規模が大きくなればなるほど、ヒトと離れてしまうものなのです。(宏)