2014年12月5日金曜日

ブノージュ村からの報告。

毎年の夏(宏)と(由)がヴァカンスに滞在する南西地方ブノージュ村の最新ニュースを、マユミさんが送ってくれました。
ご近所の集まりで、La miqueというこの地方独特のおもてなし料理が出た、というのです。この料理、数年前のナデイヤックの青空市に行ったとき、林のなかの食事会で初めて話を聞いて、とっても気になっていた幻の名物料理なのだ。
豚肉とニンジン、キャベツ、玉ねぎなどの野菜の煮込みをブリオッシュ生地に包んだもので、お祭りや家族の集まりなどの行事のときに作るらしい。どういうものなのか、その時の話だけではぜんぜん想像がつかなかったのだけれど、今回食べたマユミさんによれば、
「何かに似ているなあ、とずーっと考えていたんだけれど、最近気がついた。そうだ、あれは巨大中華肉饅頭だ!」
肉まんだったら何個分?














白くふわふわのブリオッシュ、肉はダイナミックな骨付き豚肉だったそうで。この写真を見たら今までの疑問が氷解。すっかり私も、この陽気な集まりに参加してLa miqueを味わった気分になりました。マユミさん、ありがとう。(由)

2014年12月1日月曜日

建築のリサイクル。トークショーⅡ期1回目の報告。

駿河台のエスパス・ビブリオでこの秋冬4回のトークショー、1回目のテーマは「建築のリサイクル」でした。
18区の北はずれポルト・ド・クリニャンクールにこの夏開店したル・リシクルリー( Le REcyclerie) は、1934年に廃線されたパリ環状鉄道 “ラ・プチット・サンチュール” の廃駅を使ったレストラン・バー。ここは店名でもわかるように、19世紀後半の建物はもちろん、店内の内装や什器もすべて古いものに手を入れて再利用している。食材は有機栽培のグループが提供、壊れた家具や道具の修繕教室なども開かれ賑わっています。
その後店舗などに使われていた駅舎。ホームも客席に。
東京は短いサイクルで街の姿が変わっていて、パリから戻る度に戸惑うことが多い。これに比べパリでは、古い建物を改装して再利用するのがごくふつうに行われています。
その理由として、パリの都心部セーヌ河岸一帯が世界文化遺産になっていること、それ以外の地区でも古い建物の多くが歴史建造物に指定され、おいそれとは取り壊せないこと、そして石造りの建物が多く地震もないこと、などが考えられます。
でもそれ以上に、新しく巨大な建築が進歩・発展だという、スクラップ・&・ビルトの考え方がふつうの東京に対して、今の街でいい、壊すのはもったいないという考え方がパリの人たちにあるのだと思います。要するにケチなのだ。
美術展示場“ラ・メゾン・ルージュ”は、元製版工場跡。
ピカソ美術館やカルナヴァレ美術館をはじめ、王制時代の貴族の館の多くが改装されて、美術館に転用されているけれど、そんな豪華な建物だけでなく、19世紀の市場建築や工場、倉庫なども、文化施設や商業施設として再生されている例が多い。
マレ地区の中心街フラン・ブルジョワ通りにこの夏オープンしたユニクロの建物は、もと”Société des Cendres” の工場。ここでは、宝飾店で細工をした後に出た金銀などのカケラや粉末を回収、溶解する作業をしていた。店内中央のガラス屋根から、高さ30mのレンガの煙突が突き出し、地下には加工用の機械類がそのまま遺されている。
1859年の建物を改装したユニクロ。
 近年のリサイクル建築の大物は、13区のセーヌ河岸に広がる再開発地区“パリ・リヴ・ゴーシュ”に建つパリ第7大学の2棟の校舎です。
大学本部の建物は、1921年に建てられた製粉工場 ”レ・グラン・ムーラン・ド・パリ(Les Grands Moulins de Paris)" 。隣の棟は1950年の粉倉庫 ”ラ・アル・オ・ファリーヌ(La Halle aux Farines)" を改装したもの。
パリ弟7大学。
製粉工場の改装設計を担当したのは、今フランスで人気の建築家ルディ・リチオッティ、粉倉庫はニコラ・ミシュラン。文化省の改装やマルセイユの地中海美術館では、建物をスパゲッティか蜘蛛の巣みたいな金属の網で覆ったリチオッティだけど、幸いここでは元の外観をそのまま生かしています。
大学の南、外環道路近くのパリ=ヴァル・ド・セーヌ高等建築学校の校舎もユニーク。かつてパリ市内の全郵便局を結ぶ気送管に圧搾空気を送っていた SUDAC “la société urbaine d’air comprimé ” の工場を改装している。プヌ(puneu) と呼ばれたこのシステムは1984年まで使われていた。1910年の鉄骨とレンガの建物と、2006年の新校舎との間に、1890年の巨大なレンガの煙突がそびえています。 
高さ40mの煙突をはさんで向かい合う新旧の棟。
これも鉄骨とレンガの建物だけれど、マレ地区の南、シュリー橋の東にある4棟の公共集合住宅は、工場ではなく1883年に建てられた軍隊の兵舎を改修したもの。軍が使わなくなってしばらく放置されていたものです。
改装設計はイヴ・リオン。
16区オトゥイユ地区のはずれに、大小2つの競技場が並んでいる。小さい方のスタッド・ジャン・ブーアンは、1975年のスタンドを、ルチオッティがお得意の金属網を使って改築している。黒い編目で覆われた姿は、巨大なウニの殻のよう。
そして隣のパルク・デ・プランスもルチオッティの手で改修中。この PSG(パリ・サンジェルマン)の本拠地のサッカー競技場は、1972年にロジェ・テリベールが設計したもので、70年代コンクリート建築の代表作のひとつとして評価されていた。2016年のチャンピオンズ・リーグのメイン会場に決まって、全面建て替えが計画されたけれど、パリ市などの反対で保存改修することになった。
スタッド・ブーアン。右手にパルク・デ・プランス。
というわけで、リチオッティさんも網で覆うのはナシ。グランドの地面を掘り下げて観客席を増やすなどの工事が進められています。
競技場のことに触れたのは、神宮外苑の国立競技場改築計画があまりにもヘンだと思うからです。不透明な決定のプロセス、でたらめな予算計画、巨大すぎる規模による、景観と環境破壊。これらの疑問に対する住民や建築家、市民の声や対案に耳を傾けず、決まってるんだから造るんだという姿勢は、独裁国家ならともかく、まともな大人の国での出来事とは思えません。(宏)

サン・シュルピス教会前のマルシェ・ド・ノエル。
さて、次回は12月19日(金)。朝市や骨董市、ワイン市、そしてノエルの市など、パリの街頭で開かれる青空市について話します。

2014年11月24日月曜日

仏子のアミーゴ、渡辺嘉子展。


クラフト作家・渡辺嘉子展が、埼玉県入間市の市民文化施設で開かれている。西武池袋線仏子(ぶし)駅から数分、会場のアトリエ・アミーゴは、1998年まで県の繊維試験場だった。使われなくなった7棟の建物をアトリエとして再利用。入り口の本部棟は昔の学校のよう。サロン棟というキッチン付きの建物が嘉子展の会場です。
天井の高い、落ち着いた“クリスマスを待つ部屋”
ひとつずつ開けて見るアドベント・カレンダー風の展示。
玉手箱。
渡辺嘉子展は28日まで。
1916年(大正5年)に建てられたという頑丈な木造の建物はレトロでいい感じ。染色や織物の施設も生かして使われている。
トイレと思ったらスタジオ棟。新建材の外装が残念。
織り機の残るホールで市民参加のオペラ公演をやっていた。
建物群の奥は公園です。
公園の裏手を入間川が流れています。左手には奥武蔵と秩父の山。展覧会を見に来る人は少ないかもしれないけれど、空が広くて気持ちのいいところです。
きれいな水。せせらぎにサギが遊んでいた。
産業遺産を市民のために開放した入間市はえらい。でもアミーゴというネーミングには?? いっそブツーゴ(仏子)のほうが…‥。(宏)

2014年11月13日木曜日

幻の川ビエーヴル。その6・ゴブラン織、そしてセーヌへ。

ブランキ大通りを渡った2筋の流れは、メトロの高架に面した『ル・モンド』の社屋の両脇から、ルネ・ル・ギャル公園へと向かっていた。
“Le Monde” 社屋。
 ルネ・ル・ギャル公園の南西入り口前の歩道に、1840年までここにあったという〈クルールバルブ水車跡〉の表示板が埋め込まれている。
水車は13世紀始めに設置されたそう。
 周囲の道路から数メートル下がった低地にあるこの公園は、2筋の川の中州だったところに造られている。
1938年完成の公園。
片方の川が流れていたクルールバルブ通りのバスク料理店「エチェゴリ」の壁に、“Cabaret de Madame Grégoire” の文字が残されている。昔ここは川畔の人気キャバレーで、ベランジェやヴィクトル・ユゴーが常連だった。店内に当時のようすを描いた古い絵がかかっています。
“マダム・グレゴワール”のキャバレー。
かつての川筋だったこの通りがベルビエ・デュ・メッツ通りに名が変わった右手に、ゴブラン織製作所の建物がある。ゴブラン織は、15世紀にジャン・ゴブランが、石灰分の少ないビエーヴルの畔に開いた染色工場で創られ、17世紀に王立工場になって、王宮などのための織物を生産していた。ゴブラン大通りに正面がある「ギャルリ・デ・ゴブラン」には、ゴブラン織と、モビリエ・ナショナル所蔵の家具類が展示されている。工房見学もあって、昔のままの気の遠くなるような時間をかけて織る工程を見ることができます。
クルールバルブ通りとゴブランの17世紀の建物。
ゴブラン織工房北側の通りに、“白い王妃の城”という15世紀初頭の館がある。ゴブラン家も住んだというこの館の向かいに、真っ白な外観のモダンな建物ができていた。公立のクレッシュ(託児所)などがある“幼児の家”。“子どものための白い城”です。
ベルビエ・デュ・メッツ通りに戻り、大きな壁画の脇を北へ。
託児所。外壁の小さな三角穴がかわいい。設計はRH+。
SETH作の壁画。右を抜けるとすぐアラゴ大通り。
アラゴ、ポール・ロワイヤル、2つの大通りを渡って5区に入った川は、低い位置を走るパスカル通り付近を抜け、ムフタール通りの下に出ていた。
19世紀末、『家なき子』の時代、このあたりの流域は、すでに汚染がかなり進んでいた。アジェやマルヴィルの写真で、このころのビエーヴルのようすがわかります。
パスカル通り。
皮革業者が並ぶビエーヴル。マルヴィルによる当時の写真。
ムフタールのふもと、ゴブラン大通りがモンジュ通りにぶつかる辺りで1筋になった流れは、サンシエ通りの南側を行く。サンシエの大学構内も流路だった。
サンシエ通り。川は右の低い道の裏手を流れていた。
植物園南脇、ビュフォン通りに並ぶ自然史博物館別館の裏手の、今は袋小路のニコラ・ウエル通りを流れていたビエーヴルは、オピタル大通りに出ます。
ビエーヴルが流れていた自然史博物館別館裏の袋小路。
川はオステルリッツ駅構内を横切って、セーヌに流れ込んでいました。
メトロ5号線の高架橋の辺りに流入口があったらしいけれど、今は跡形もない。
メトロ高架橋の向こう側に流入口があったという。
河岸に並ぶ船の中に、ル・コルビュジエが救世軍のために設計した船があって、歴史記念物として改装中です。
それはともかく、ここが幻の川ビエーヴルの終点です。
◉生きた川、死んだ川。
2筋の流路のうち、西(左)が概ね自然の流れで、東側(右)は水の利用のために造られた流路という。人工の流路は遅くても12世紀には使われていたらしい。自然の流れを死んだ川筋 “bras mort”、後者を生きている川筋“bras vif”という。
川筋のおもな地点の歩道に埋め込まれた円盤にも、この文字が刻まれている。ニコラ・ウデル通りがオピタル大通りに出た地点では、“bras unique” になっています。
ゴブラン大通りの生きている川筋の標識。死んでるけどね。
オピタル大通りの、ひとつになっている川筋の標識。
◉ビエーヴル通りとヴィクトリアン運河。
サン・ジェルマン大通りのモベール広場近くからセーヌ河岸へ抜けるビエーヴル通り。故ミッテラン大統領が住んでいた通りである。この通りの名は、11世紀に、2つの修道院が、ビエーヴルの水を敷地内に引くために造ったヴィクトリアン運河の名残り。我田引水です。水路は17世紀末に埋められている。
ビエーヴル通り。左手がミッテランの住んだ家。
・・・これで、6回に分けてのビエーヴル散策記終了。流域の各所で「ビエーヴル・ルネサンス計画」が進行中です。何年か後、もっと多くの場所で、水辺のある風景が見られるようになっているといいなぁ、と。(宏)

2014年11月9日日曜日

幻の川ビエーヴル。その5・パリ13区、グラシエール。

パリのビエーヴルの出発点は、外環道路のすぐ内側ケレルマン公園。池にカエルや小魚が泳ぐ公園を出て、ポテルヌ・デ・プープリエ通りから流れの跡をたどります。
ケレルマン公園。
 ビエーヴルは、トラムが走る内側の環状道路をくぐり、そのままプープリエ通りを北へと流れていた。
向こうはかつてのプチット・サンチュールのガード。
しかし、この道は上り坂なのです。市内の流れをたどると、地形に逆らっている? というところが他にもある。 
いちばんの理由は、長い歴史の中で地形が人工的に変えられてきたこと。そして、ビエーヴルの流路も変えられてきた。無数にあった水車が、低い水位の水を高い位置に移していたからです。
ラベ・エネック広場の周囲には、1920年代末から30年代に建てられた一軒家が集まっています。先に引用した『家なき子』の一節は、おそらくこの辺りのこと。その引用部分のすぐ前には、
「このへんはラ・メーゾン・ブランシュとグラシエールの間にある土地で(略)いちばんきたない陰気な所だと(略)信じられもしていた。(略)ビエーヴル川と言えば、たいてい人がセン・マルセルの場末で、工場地になっているというので、頭からきたない所と決めてしまうのであるが、…‥」とある。
ラベ・エネック広場。20年代末の一軒家。
トルビアック通り付近でビュット・オ・カイユの高台にぶつかって、大きくターンした川筋は、ランジス広場へ。やはり’20年代の一軒家が並ぶシテ・フロラルも近く、のどかな空気の場所だけれど、南側の旧国鉄用地の再開発で、ここも大きく変わろうとしている。
再開発地区の広場側に、短いけれど新しいビエーヴルが造られています。
ビエーヴル復活計画では、街路の内側に隠れている元の流路とは多少ズレても、可能な場所に、水路を造ろうとしているのです。
1928年に開発されたシテ・フロラル。
ランジス広場南の短い再生ビエーヴル。

この辺りの道路は、昔のビエーヴルの流路と一致しているところが多い。ランジス広場で再び向きを変えた2筋の川に挟まれていた地域は、グラシエールと呼ばれていた。石を掘り出した跡の地下道に、冬に張った氷を保存し、それを夏に売っていた時代の名残です。
曲線の流路跡に造られたブリア・サヴァラン通り。
ヴルツ通りも川筋跡の通りです。
ヴェルニョー通り沿いを北上した川は、メトロ6号線の高架があるブランキ大通りを渡リます。(宏)

2014年11月8日土曜日

幻の川ビエーヴル。その4・再生された流れ。

アントニーのエレール公園から、暗渠の上に作られた道を行くと、ほどなくRER・B線の走る土手にぶつかります。ビエーヴルがくぐっていたアーチ型のトンネルが線路の向こう側に抜けています。
今は歩行者専用のガード。(ナオ撮影)
ここは洗濯場だった。昔の絵はがきです。
アントニーからジャンティイへ、地下のビエーヴルを追ってB線の東側を北上する。ここからはほとんど同行者ナシのひとり歩き。ただこの区間、暗渠化された後の都市開発で、大半は川の痕跡もなく、歩いてもつまらなかった区間は省略します。
A86の北、フレンヌ刑務所を見上げる辺りのプレ・ド・ラ・ビエーヴル公園からライ・レ・ローズのビエーヴル庭園にかけてのバス通り(D127)沿いに、本格的に再現されたビエーヴル川が見られます。
ビエーヴル流域で進められている“ラ・ビエーヴル・ルネサンス計画” の最初の成果で、広い道路巾を縮小して造られた緑地帯の地下深くに、巨大な下水道を通し、その上にきれいな水を流すという二重構造。増水したら下水道に水を逃がす仕組み。この、下水ときれいな川の水の分離が、ビエーヴル再生のキホンなのです。川の流路と畔の植生は自然に任せていて、若木や葦などが伸び始めています。
水辺は植生保護のため立ち入り禁止です。
この再生ビエーヴルは、渋谷川など東京の水辺復活計画でも参考にしているという。バニューのわが家の近くにある湧水の出る小さな公園も、再生計画の一環で造られていて、湧水を再生川に流しているらしい。
さて、1900年のカシャンの町には、120軒もの洗濯屋があったという。町の中心を南北に走る大通りの裏手、新しい公共集合住宅の並ぶ中にも、再現された流路が見られます。ただここは素材の洗濯、いや選択が悪い。模造敷石とコンクリートの川で、周りの植物もいかにも植木という感じなのです。
カシャンの再生ビエーヴル。団地によくあるやり方だね。
 カシャンとアルクイユの境に、17世紀初頭に造られたヴァンヌの水道橋がそびえている。リュクサンブール庭園に水を引くために造られたもので、今もモンスリ貯水場へ水を運ぶ現役です。ビエーヴルはこのアーチの下を流れていました。
上層は19世紀に増設されている。
サティが住んだ建物と水道橋。(ホソキさん撮影)
水道橋の北側に、作曲家エリック・サティが暮らした質素なアパルトマンがある。サティはヴァヴァン交差点辺りまで歩いて通っていた。
ここからジャンティにかけても、流れの跡は見つけにくい。その後の開発で、街の姿がすっかり変わっているからです。
ジャンティイの北端、ラスパイユ通り裏の、フタされた流路の場所に水の無い川が造られている。ジャンティ在住のホソキさんによると、これは今進められている水辺の復活ではなく、この辺を再開発したときに“記憶の川”として造られたものだろう、とのこと。
水の無い川。
 ビエーブルの畔に建っていたサン・サチュルナン教会裏から、外側環状道路のガードをくぐるとパリです。(宏) 

2014年11月5日水曜日

幻の川ビエーヴル。その3・流れの最終コース、緑の住宅街。


この日はイニー駅からアントニーまで。ホソキさん、ナオコさん、フミオが同行です。
イニー駅のすぐ近くに小さなゴルフ場がある。
そしてここからはヴェリエール・ル・ビュイッソンの町。小川はこのゴルフ場の柵の中へ。柵の外にも分流の川筋があるけれど、水の無い川です。
左の茂みに涸れた川。右手にゴルフ場。
 ゴルフ場の脇を抜けると、落ち着いた田舎町の雰気の街に入る。パリ通りの坂の途中に、今は使われていない洗濯場が残っています。
パリ通りはいかにも“フランスの田舎町”という感じ。
で、道ばたに古い洗濯場。
 ヴェリエールのビエーヴルは住宅地の中をぬって流れていて、川沿いに歩くのは難しい。
住宅の庭の間を流れている。
道路際(橋)に、“ラ・ビエーヴル”の標識。
斜面の上のほうにある市庁舎前広場のテラスで昼ごはんの後、緑の住宅街を下り、流れを探しながらアントニーとの境へ出る。
ヴァカンス先のレストランのようでした。
遊歩道の上に、金網と木立に囲まれた大きな遊水池 “Bassin de la Bièvre” が隠れています。アントニーで度々起きていた洪水の被害を防ぐため、1970年代に造られたこの池は、自然保護区に指定され、148種もの野鳥たちの天国になっている。水質もいいそうです。
5月の“自然の日”に限定公開される湧水池。(フミ撮影)
 ここから、アントニーの競技場とジャン・ヌーヴェル設計の中学の校庭の間を抜けて、エレール公園に入る。湧水池から引かれた小さな池がある。流れのほとんどがこの池から暗渠へと流れ込んでいく。自然のビエーヴルの水が見えるのはここまでです。
エレール公園の池の堰。
でも、ポニークラブのある公園隅の木立の中を、再現された小川が流れています。そして、公園の正面入り口の脇には、かつてあった水車が再現されているけれど、ふだんは水を通していない鉄車です。
公園に再生されたビエーヴル。
花に飾られているけれど水が無い。
この水車の前に“Le Moulin de la Bievre”という、17世紀の館を改装したアパルトマンがある。じつはバニューに引っ越す前、わが家はここに住んでいました。(宏)