2018年12月21日金曜日

ドワノーのアトリエ。

バニューの北の隣町モンルージュに、写真家ロベール・ドワノーが住んでいたアトリエ住宅がある。一般公開はされていない。1930年代に建てられたアーティスト向け集合住宅群の中にあって、数棟先には画家フェルナン・レジェもいた。
岩波やリブロポートから出版されているドワノー(ドアノー)の写真集を訳した花ちゃん(堀内花子さん)の縁で、このアトリエ住宅を見ることができました。ただし非公開なので写真もナシでの報告です。

モンルージュの東隣、ジャンティイ生まれのドワノーが、結婚後の1937年から亡くなった94年まで家族と過ごした住居は、彼の2人の娘、アネットとフランシーヌが運営する”Atelier Robert Doisneau”として、ドワノー作品と資料の保全管理の場になっている。この日はフランシーヌさんが説明してくれました。

2階と3階(フランスの1・2階)の住居には、大きな窓のある吹き抜けの広間が2つ。ひとつは家族の居間で、もうひとつがドワノーの仕事場だった。今は大きな本棚と作品棚で埋めつくされている。

45万カットもあるというネガは、上階の小部屋の棚に並ぶファイルに収められ、年代別に整理されている。ネガは静電気を防ぐ素材のシートに入っています。全ての作品が検索できるように、デジタル化されている。印画紙に焼かれた作品は、テーマごとにファイルされています。
『ドワノーと音楽』展は、201919年4月28日まで。












ラ・ヴィレットのフィルハーモニー・ド・パリで開催中の『ドワノーと音楽』展が開かれている。棚にあったバレーの練習風景の写真は、裏面にメモもなくネガも見つからないため、展示できなかったというものでした。(宏)




2018年12月16日日曜日

堀内誠一・絵本の世界。

エスパス・ジャポンで先週末まで開かれていた『堀内誠一  絵本の世界』展のパンフレットのために書いた文を転載します。
2018年の春、パリ郊外のクラマールにある児童図書館  ”LaPetite Bibliothèque Ronde” (小さなまるい図書館)からエスパス・ジャポンに、長い間同館が保存していた紙芝居 ”Un garçon venu de la mer” (海からきた男の子)の原画の作者について問い合わせがありました。 
この紙芝居は45年前に、堀内誠一さんがこの図書館に集まる子どもたちのために描いたものでした。この原画の再発見を機に同図書館はいま、フランスでは知られていない絵本作家 Seiichi HORIUCHI に関するさまざまな催しを企画しています。
1974年から家族とともにパリ郊外のアントニーに住んだ堀内さんは、同年に創刊された『いりふねでふね』と、それに続く日本語新聞 ”ovni” の基本を作ってくれた人です。企画から取材、絵入りの原稿、手書きの見出し、広告のデザイン、印刷のための版下づくりから製版まで、すべてにわたって手を動かしていた堀内さん。その仕事ぶりは驚くほどの速さで、しかもじつに的確なものした。
エスパス・ジャポンでは、小さなまるい図書館の企画に合わせ、多彩な堀内さんの仕事の一端を、絵本を中心に展示・紹介します。

堀内さんの絵本。


小さなまるい図書館が保存していた紙芝居『海からきた男の子』は、堀内さんが単身パリ滞在中だった1973年に描かれ、直接図書館に寄贈されていたため、家族もその存在を知りませんでした。画面からあふれそうな勢いを感じさせる作品は、デンマークの民話をもとにしたもので、後に改めて描きなおした紙芝居『海からきたちからもち』として刊行されています。堀内さんは他にも『こぶたのまーち』や、『したきりすずめ』『ながぐつをはいたねこ』などの紙芝居を制作していますが、どれも画面から離れて見る子どもたちにわかりやすいよう、太めの輪郭線で描かれています。『ながぐつをはいたねこ』はやはりアントニー滞在中に、クラマールの子どもたちのために黒1色の描線で描かれたものですが、後に堀内さん風に彩色されたカラー版が発行されています。


堀内さんの絵本といえば、『たろうのおでかけ』のたろうや『ぐるんぱのようちえん』のぐるんぱ、『ロボットカミイ』のカミイといった、主役たちの姿が思い浮かびます。これらの絵はそれぞれの話によって違った方法で描かれながら、どれもが子どもたちの心にいつまでも残る魅力を持っています。



白地に軽快な線で描かれ、ほっぺたに赤い丸の付いたたろうと、筆触を生かして描かれた象のぐるんぱは、ほぼ同じ時期に制作されました。堀内さんの多彩な絵は時期によって画風が異なるのではなく、テーマや話の内容によっていちばん適切な描き方を選んでいたのです。画材もパステル、カラーインク、フェルトペン、水彩、アクリル絵具と、絵によって自由自在に使い分けていました。



コンパスと定規を使った幾何学的な絵の『くるまはいくつ』、平面的な色面で描かれた『ちのはなし』や『てとゆび』などの科学絵本では、明快な図解で原理や仕組みがわかりやすく説明されています。
いっぽう画面全体を水彩で描いた『こすずめのぼうけん』では、美しい自然の風景がみごとに表現されています。こすずめが迷いながら飛んだ川原や茂みのある草原などは、原作者エインズワースが暮らしたイングランド北部の田園風景。おそらく堀内さんはこの地方を旅行したときの観察と印象をもとに、こすずめの視点から描いたものと思います。


また『おひさまがいっぱい』で描かれている、起伏のある緑の中に赤い瓦屋根の家が点在する情景は、堀内さんがたびたび訪れた南仏によく見られる景色です。パリ近郊の住宅地にも多かった赤い瓦屋根は、近年どんどんその姿を消しているのですが。
雑誌のアート・ディレクションやレイアウト、ロゴ制作などのデザインの仕事でも、絵本やイラストレーションの仕事でも、堀内さんはそのテーマの本質を捉えて、それをぴったりした形で表わすことのできる天才でした。
『ことばのえほん』『かずのえほん』や『マザーグースのうた』で堀内さんとコンビを組んだ谷川俊太郎さんは、『絵本ナビ』のインタビューの中で、「…渡せばそれでできちゃう、本当にそんな感じでしたね。僕が訳したものを出版社の方が堀内さんに送ってくれるだけ。後はそれを全部レイアウトして順序も決めて、それで1冊目、2冊目、3冊目って彼が作ってくれる。彼は編集者としての才能もすごいんですよ…」と語っています。

堀内さんが描いたぐるんぱやたろーたちは、これからもたくさんの子どもたちに、世代を超えていつまでも愛されていくことでしょう。
堀内 誠一(ほりうちせいいち)
1932年東京生まれ。14歳で伊勢丹宣伝部に入社。
1970年創刊の雑誌『an・an』でアート・ディレクターを務め、その斬新な誌面づくりで脚光を浴びる。
1950年代末から始めた絵本の仕事でも、多彩で卓越した才能を発揮。『たろうのおでかけ』『ぐるんぱのようちえん』『おひさまがいっぱい』など、多数のロングセラーを残している。
1973年、パリに滞在してフランスやヨーロッパ各地の絵本研究。翌1974年から1981年まで 家族ともにパリ郊外アントニーに在住。各地を旅行し、絵本と西洋美術への見識を深める。その間も精力的に絵本制作をしながら、日本の雑誌にパリや旅についての絵入りのエッセーを寄稿。また、ベルナール・ベローとともに在仏日本人向けの不定期刊のミニコミ誌『いりふねでふね』、後に『ovni』の発刊に尽力した。
絵本以外の著書に『父の時代 私の時代』『パリからの旅』『堀内誠一の空飛ぶ絨毯』『ぼくの絵本美術館』、編著書に『絵本の世界・110人のイラストレーター』など。

1987年8月、親交の深かった澁澤龍彦逝去の12日後に死去、享年56歳。天才の早すぎる死だった。

4人家族のわが家がアントニーに住み始めたのが、1987年の秋。夏に堀内さんが亡くなった年でした。上記の展覧会や催しのために東京から来た、堀内夫人路子さん、長女の花子さんと、堀内家が過ごしたアパルトマンに行ってみた。アントニーの中心部はずいぶん変わったけれど、町外れにある建物と周りの風景はほぼ当時ののまま、でした。(宏)