2015年12月10日木曜日

またトークショーのお知らせ。

駿河台の図書室カフェ「エスパス・ビブリオ」で、また性懲りもなくトークショーをします。2016年の1・2・3月の土曜の午後に一回ずつ。
今回のチラシです。
1月23日(土)は、シャルトルにある「ピカシェットの家」。
墓地の墓守が自分の家を、割れた皿の破片によるモザイクで覆い尽くしたもの。10月の『ovni』にも書いたのでもう読んだ人もいるかと思うけれど、紙上では掲載できなかったたくさんの写真で、細部まで魅力にあふれたアール・ブリュットの傑作を紹介します。
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壁も敷石も、花の壺も皿のカケラのモザイク模様。
今回のチラシです。
2月13日(土)は、 「異邦人のパリ」。
1月末に(由)の本『パリ、異邦人たちの味』が出るのに合わせ、パリに生きる異邦人の話をします。テロを実行した人を含めると140人近い命が失われてしまったけれど、パリには世界のあちこちからやってきた人たちが、他の存在を認めながら、それぞれの暮らし方で生きている。そんなパリの姿を、食べものの話を交えて伝えます。
その場で作ってくれるポーランドのサンドイッチ。
3月19日(土)は、「Foujitaの家」。
戦後、追われるようにパリに戻ったフジタが、キミヨ夫人と晩年を過ごしたパリ郊外の家は、屋根裏のアトリエでフジタが手作りした可愛らしいオブジェで溢れている。このアトリエにはランスの礼拝堂を飾る祭壇画の試作も残されている。エコール・ド・パリの寵児だったFoujita、戦争画の藤田とは違う、異邦人フジタのやさしく穏やかな一面が感じられます。
Foujitaの家は17世紀に建てられた農家だった。
せっかくの土曜の午後ですが、もし気が向いたらどうぞお出かけ下さい。 『パリ、異邦人たちの味』も即売します。(宏)
詳細は、ここをクリックして→ ESPACE BIBLIO のhpを見てください。

2015年12月3日木曜日

越境者にやさしく。

隣町ソーの住宅街を歩いていたら、一軒の家の庭の前の歩道の端っこにかなり太めの木の根元が突き出ている。いや、突き出てるんじゃなく、道から庭に侵入しているんです。
越境して侵入する松の木です。
 で、この越境者を迎え入れるために、鉄柵にこんな加工をしている。やさしいね。
特注の円入り口。
そういえば、石神井の家はすぐ近くに公園の森がある。その森に沿った道端にあった大きな木は、クルマの通行の邪魔だという理由でバッサリ切られていたっけ。 (宏)

2015年12月1日火曜日

レ・アルの工事。

久しぶりにレ・アルに行ったら、フォロム・デ・アルの改築工事がだいぶ進んでいて、森の梢部分を意味する“キャノペ”と呼ばれるガラスの天蓋が出来上がっていた。
"canopée"キャノペ(キャノピー)というガラスの天蓋。
RERの駅に降りようと、工事の囲いの間の入り口からフォロムに入る。内部の商店街は新しくなったところもあるけれど、まだパネルで覆われた部分も多い。中庭を囲んで、階段状の曲線が特徴だったガラス張りの回廊は姿を消している。
すっきり直線のガラスに変わっている。
中庭からカキャノペ(天蓋)が見える。
工事中の通路には、出入口や営業中の店、地下の駅への案内標識がたくさんあるんだけれど、あちこち迂回させれます。
案内標識がいっぱい。
非常口。案内表示などはM/M (Paris)のデザイン。
新しいエスカレーターで駅改札のある地下4階に降りたけれど、改札口が無い。
後で気がついた。、駅改札への表示に赤いバッテンが…。
ちょうど通りかかった工事のおっさんについていったら……。
パネルの間の通路を行く。
あれ? そのまま駅の構内に出てしまった。
RERの乗り換えホールも工事だらけ。
RERとメトロの構内もあちこち工事だらけで、行くたびに様相が変わっている。でも、2004年にコンペで選ばれたダヴィッド・マンジャンの計画案では、地下3階にあるフォロムの中庭に“光の井戸”が開けられ、地下4階のRERのホールと、その下のホームまで、ガラスの天蓋を通した自然光が降りそそぐ、ということだったはず。でも、工事のようすでは、どうもその気配が見られません。
コンペの最終候補4案の中で最も凡庸だと言われたマンジャンの案は、前のフォロムの基本構造を残し、駅は閉鎖しない、テナントの店も営業を続けたままで工事をする、そして何より安上がり、というのが地域住民や経済界の支持を得て選ばれている。しかしこの案は設計の詰めが甘く、2006年にこの案をベースにした第二次のコンペが行われた結果、選ばれたのが今工事が行なわれているパトリック・ベルジェらの設計案なのです。マンジャンさんは、フォロム内部と西側の公園の改装設計を担当している。マンジャン案の唯一の魅力は“光の井戸”だったと思うけれど、どうやら消えてしまったらしい。

さてここは、かつてパリの中央市場があったところ。1960年に中央市場がランジスに移転し、第二帝政時代の19世紀半ばにバルタールの設計で建てられた壮麗な市場建築は60年代末に取り壊されてしまった。この跡地に1979年完成したのが「フォロム・デ・アル」なのデアル。バルタールが造った12棟のホールのうちの1棟が、 マルヌ川沿いのノジャンに移築されています。
TVの公開番組でもおなじみのパヴィヨン・バルタール。
60〜70年代に取り壊されたバルタールの鉄とガラスの建築は、今なら確実に歴史建造物になっていた。ロンドンのコヴェントガーデンをはるかに上回る規模だし、残されていたらきっとパリの人気スポットになっていただろう。
1979年に出来上がったフォロムは、30年の命だった。そのアクセスや人の流れの導線の悪さなど評判が悪かった。 西側の公園の地下にある、ポール・シュメトフが設計した「プラス・カレ」部分は、ほぼそのまま残されています。
姿を消した地下3層のフォロム・デ・アル。
 2004年のコンペで、最もユニークで建築や都市計画専門家の評価も高く、最後までマンジャン案と争ったのは、レム・コールハースの計画だった。
で、これが来年竣工予定のベルジェの完成予想図です。商店街のほか、コンセルバトワール(音楽学校)や図書館などの文化施設も新設されるます。
間もなく?完成する新フォロム・デ・アル。()
それにしても長い工事です。元はと言えばロンドンにさらわれた1912年のオリンピックを目指した改築計画。気持ちのいい空間ができるといいのだけれど。(宏)

2015年11月24日火曜日

クロネコの影絵。

フミオがゲームをしようと準備していたら、画面を見ていたハルが何かを見つけたらしくモニターに寄って、手を出している。
よく見るとポインターの矢印を蚊とカ違い、いやカン違いして、動きに反応していたのですした。







 しばらく追っていたけれど、捕まえられなくて、そのうちやめてしまいました。(宏)



ふだんどおりに。

夏にフミ+ナオの赤ちゃんが生まれたり、取材が重なったりで、更新をサボっていたら、パソコンがダメになって復旧に手間取っていました。やれやれ一段落と思っていたところに、悲惨な出来事が起こってしまった。
いろんな問題を抱えながらも、多様な人々が他の人たちの存在を認めて、《自由・平等・友愛》という建前のもとで共生しているのがパリのいちばんいいところなのに。
あの日とは無関係の、ゾラの家の前にあった落書きです。
 このテロに対して、“戦争だ!”と言って爆撃するのが解決策だとはとうてい思えない。今パリでは、“あえてカフェのテラスに座ろう”という人が多いという。19世紀にドイツ軍に包囲された時にもパリ市民はそう言っていたらしい。
あの日の数日後のホソキさんのブログにあった、「亡くなった人たちも自爆した人たちもこのうららかな日を知らない」という一節が心に刺さります。パリに住む友人たちの多くも、“怖くて悲しいけれど、ふつうに過ごすしかないよね”と‥‥‥。
 で、次回から、ふつうのノーテンキなブログを再開します。(宏)

2015年8月31日月曜日

『狐物語』と『ぼくだけの音楽1』2冊の本

福音館書店の編集者マツモトさんからきれいな本が送られて来ました。『ぐりとぐら』シリーズの画でおなじみの山脇百合子さんが訳した『狐物語』です。
1928年にフランスで出版された原本の編者と挿画はレオポルド・ショヴォー。中世から伝わる狐のルナールが主人公の物語をショヴォーがまとめ直したもの。この原本をみつけたマツモトさんの努力で完成したすてきな本です。堀内誠一さんが“白と黒の魔法”と評したショヴォーの挿画と、やさしく正確な山脇さんの訳文がいい。
ショヴォーは外科医だった。
山脇さんがこの物語が生まれたところを見たいと来仏したとき、その場所探しを少しだけ(宏)が手伝いました。パリの東イル・ド・フランスとシャンパーニュの境あたりがその主な舞台です。
さてもう一冊。
(宏)が雑誌の仕事をしていたころからのつきあいのヨネから送られてきたのが『ぼくだけの音楽(黒田恭一コレクション①)』。
音楽評論家としてよく知られていたわりには著書が少なかった黒田さん。そのクロキョウさんの編集担当者で、クロキョウさんを慕い、クロキョウさんと親しくしていたヨネが、音楽が好きなひとたちに、もっとクロキョウさんの文に触れてほしいと、がんばって出版したもの。内容詳細はヨネのブログを見てください。
パラフィン紙でくるまれています。
ヨネの企画したこのシリーズ、(宏)は装本などの相談に乗り、デザインしたのはPABLOのサトウAくんです。
黒田さんが新人のピアニスト(名前は覚えていない)のレコーディングに立ち会うためにパリに来たとき、パンテオン近くのレバノン人宿舎の講堂での練習を聴くのにおつきあいした。ショパンの曲の気持ちのいい演奏が終わって、レバノン料理の話になり、「レバノンではレバーは食べないんですよ」と言ったら、「へー、宗教の関係ですか?」と黒田さん。「いや、レバノンだから・・・」。目玉をクリクリさせたクロキョウさんはうれしそうに「はぁ〜、イナバさんてそういう人だったんですか」と。
そのときもいっしょだったヨネ企画のこの本、部数が少なくてちょっと値段が高いけど、売れてくれて続きが次々と出版できるといいな。(宏)

2015年8月18日火曜日

8月のパリ、いろいろ。

一部の観光地は別として、8月のパリは空いています。北駅に近い屋根付きの常設市場マルシェ・サンカンタンも休みの店が多くまるで閑散たん。
子どもを遊ばせてのんびり。
ところでこの人、7歳ぐらいの男の子のお母さん。日本ではおばさんになるとなぜかミニをはかなくなるけれど、パリではおばあさんでもミニとタンクトップという人が多い。
 それはそうと、ごちゃごちゃ雑然としたフォブール・サンドニ通リの古い酒屋、それもワイン屋ではなく、ウイスキーなど世界中の酒を扱う店のウインドーにニッカを発見。
パリの人は朝ドラは日課じゃないけどね。
マレ地区の北のほうの歩道の隅に、お馴染みの石の物体があった。
詳しくは、旧著『路上観察で歩くパリ』を見てください。
で、18区のマルカデ近くの裏道にこんな立て看板を見つけました。
立ちションの罰金は35ユーロです。
 “ひとりのいい気持ちで、たくさんのうんざり” みたいなことが書いてある。でもそれよりトイレを置こうよ。
 さて、モンパルナス駅脇のパスツール大通りに、こんな2人が座っていた。
ほぼ等身大の塑像。男性はエリツィンに似ている。
 クラシックな装いの夫婦像だけど、はてな?何これ?
通行人はみんなけげんな顔で見ています。
2人の前にお金を入れる缶があった。なんだそういうことか、代理の物乞いです。
さてウチに帰ろうかと、ダンフェールの駅に向かったら、華やかに着飾った親子がすぐ前を歩いていたのでウシロからパチリ。
右がクロダさん。ご当人はこっちに気づいていた。
と、親子連れの横から「あれ? ぼくを撮ってくれたんじゃないの?」という声。
いつもダンディーな黒田アキさんでした。
いかにもヒマネタばかりでごめんなさい。(宏)

実りの夏。

7月が暑かったせいで、イチジクは7月中に取りつくし、例年なら9月に色づく庭のブドウがもうすっかり完熟している。それも数年ぶりの豊作。うれしいんだけれど、さていつ収穫しようか? 
誰に手伝ってもらえるかもモンダイです。
そしてリンゴ。これもいつもよりひと月近く早いのに、もう食べられる。去年はまるで不作だったけれど、今年は鈴なり。
カリッとしてすごくおいしい。
クルミやキウイはまだだけれど、どちらも順調にふくらんでいます。
外側が割れて中のクルミが落ちてきます。それを拾う。
 ナオちゃんが野菜を作るといって、キュウリやスイカなどのタネを撒きました。
今までのところスイカは?で枝豆はほんの少しだったけれど、キュウリとシソ、水菜、それにオクラは大成功。
日本のキュウリだけど大きさはフランス。
左の2株はアマゾンで買った苗、他は日本のタネから。
でもヨル、ハルは庭の産物には興味なしで、気持ち良さそうです。
水菜とハル。
われ関せずのヨル。
月末、ナオ・フミに赤ちゃんが生まれる予定。実りの夏なのです。(宏)

2015年7月30日木曜日

ヴェジネのギマール、ヴィラ・ベルト。


パリ西郊、ヴェジネに残るギマール建築 “Villa Berthe” が、夏限定で見られるというので出かけました。1896年に完成したこの家は、エクトル・ギマール初期の名作カステル・ベランジェと同時期のアール・ヌーヴォーです。
 RER・A線の終点サンジェルマン・アン・レイのひとつ手前のヴェジネ・ルペック下車。駅のすぐ近く、うっそうと繁る木々の中に、大きな鉄柵の門扉があった。
1930年代までこの門は建物正面にあったという。
カステル・ベランジェの扉によく似ている。
この鉄扉の脇、72番地の通用門のブザーを押すと、すぐ行きますと若い女性がうれしそうに迎えてくれる。彼女は Agathe Bigand-Marion(アガト・ビガン・マリオン)さん。建築史とりわけギマールの研究者で、この家の持ち主がヴァカンスの間、ひとりで案内をしているそう。客はボクだけだったけど、ていねいに説明してくれました。
3層の家は、ネオ・ゴシックとアール・ヌーヴォーが併存している。
芝生の庭に面した南正面の屋根に、3つの小屋根が突き出ている。城の塔ような形の中央の塔には半円形のボウ・ウインドウ(出窓)が、アール・ヌーヴォーを主張しています。
三角屋根とボウ・ウインドウが特徴的です。
北側の全景。
玄関は東側。でも家の中には入れない。え? というと、住人が留守ということもあるけれど、それよりギマールはもともとこの家の内装をしていない。というのは、建主が古い家具や美術品のコレクターで、内部はその収集品と合うようにクラシックな内装を望んで、ステンドグラスも暖炉も全く伝統的なものだそう。
それでもギマールは、建物の構造や窓や階段の構造はもちろん、外周りのあらゆる部分に、細心の工夫を凝らしている。ギマールは場所ごとに変化のある森のような家を目指していたという。
中世建築のような玄関。
石とレンガ、タイル、鋳鉄などの異なる素材を組み合わせて、違和感なくまとめ上げる才能はさすがです。
玄関横の窓はタイルとレンガ、そして鉄の飾り。
南面ボウ・ウインドウ周りには石のレリーフ装飾。
台所の窓。下の格子部分は野菜などの食料貯蔵庫だった。
北側の庭への出入り口。
地下室の換気孔。
建物の下部は裾広がりになっている。
南面のテラス。この家は窓が多く明るい。
テラス周り。有機的な形の不思議な石。
鉄の柵は藤の古木の圧力に負けない強度がある。
ギマールは1985年にブリュッセルでオルタとタッセル邸などの作品に出会って強い影響を受けてカステル・ベランジェを完成させている。
 外周りだけだったけれど、ギマールの世界に間近に触れることができました。ありがとアガトさん。(宏)