2011年3月29日火曜日

サン・ジャック通りの火事。

モベール広場にある中華食品店で米と豆腐を買おうと、クリュニー美術館の前を通ったら、美術館前が通行止めになっている。
誰かエライ人の来館かなとお巡りさんに訊くと、火事だという。なるほど美術館前の通りの向こうに、はしごを伸ばした消防車があって、臭い匂いが漂って来た。

ソムラール通り。左手の建物が現場らしい。

















しかたなくゼコール通りに回ったらここも通行止めで、人も消防車とパトカーもいっぱい。
で、サン・ジャック通りは渡れない。

左の建物はコレージュ・ド.・フランス。

















クリュニー脇の庭園から抜けられるかも、と思いついたら案の定でサン・ジェルマン大通りに出られました。ここにも消防車が並んでいたけれど、どうやら鎮火したようでサン・ジャック通りとの交差点は通過できた。サン・ジャック通りに高く高く延びた梯子というよりクレーンが見えた。

向こうにもうひとつ梯子が。

















クレーの先端には数人の消防士さん。

屋上からの帰還はクレーンで。よくくんれんされてます。















地震、雷の下にランクされてる火事だけどやっぱりコワイ。
帰ってからネットで見たら、火元はソムラール通りのホテル最上階。広いサン・ジャック通り側からクレーンを伸ばしていたらしい。けが人も無く滞在客は全員別のホテルに移ったそう。よかったね。(宏)

2011年3月23日水曜日

Libération の地震報道。

地震のあった翌日12日から、ウチで取っている新聞『リベラシオン』も、連日、地震の記事が最大級の扱いをしていました。

12日の朝刊、発生からほぼまる一日経っての紙面は、前日まで大きく取り上げられていたリビア報道を吹き飛ばしてしまった。テレビも地震と津波そして原発 事故報道一色に。初めのうちは、地震の大きさにも関わらず被害も最小限で、日本人は冷静だということだったけれど、津波の被害がわかるにつれて、その恐ろ しさが……。
3月12日。“世界の最期を思う”
















新聞は日曜は休刊なので原発事故が詳しい解説入りで大きく取り上げられたのは月曜になってからです。
14日。恐怖。            15日。死の大地。















『AERA』が「放射能がやってくる」と表紙に書いて非難を浴びたそうだけど、日本では何でほんとのことを書くと叱られるんだろう。
ネットで見ている日本 の地震報道がどうもすっきりしない。
「健康には影響ありません」というばかりの政府首脳の記者会見も、枝のほうの話ばかりで幹がない。それになぜ作業服なんだろ?
16日。核パニック。            17日。生き残る。















いったい今何が起きているのか、この先どうなるのかという情報がよく見えない。、あの20キロ先の原発現場の映像のように、霞がかかっているように感じられるのです。
18日。地獄の中心。逆からは、戦争?















18日のリベは《日本/リビア・ダブル特集》。原発事故を中心にした地震の記事と、天地逆に印刷されたカダフィ側から開くとリビア情勢の記事。それぞれ10ページ。
17日の連合軍による反カダフィ軍事行動を認めた国連安保理事会の決議を受け、地震報道で押しやられていたリビアが一気にリベンジという感じ。
原発事故に関連して、日本のエコロジストはなぜ声を挙げないのか? という特派員報告がある。声を挙げても霞に隠されちゃってるんだろうか。

19日。                  21日。















そして、19日(土)のリベの表紙は地震とカダフィ半々になりリビアへの爆撃が始まって、21日(月)には地震が隅っこに。22日も同様で、日本ではまだまだ大変な状況が続いているのに、23日には表紙から地震が消えました。

というわけで、日本の報道に比べると直裁なフランスの報道も、極端な状況が収まると、とたんにまるで潮が引くようになる。

だいたいチェルノブイリのとき、お隣のスイスもドイツもイタリアもスペインも、それどころかフランス国内にあるモナコまでが、放射能濃度の異常を発表していたのに、フランス政府は(気象庁も)、フランスには放射能は来ていない。健康や環境には何の影響もない。と強弁していた。そのフランスが今回はまっ先に日本在住の自国民を帰国させた。国家ってけっこうあやしいものですね。

それはともかく、リベの表紙にもう再び “FUKUSHIMA” が出てこないで済むように、リスクを承知で復旧作業に取り組んでいる皆さんにお願いするばかりです。(宏)

2011年3月17日木曜日

シェルブールは 今日も雨だった。

◉東宝ミュージカル『シェルブールの雨傘』公演プログラムからの再録/日生劇場・2009年12月/シアターBRAVA!・2010年1月。

シェルブールはノルマンディ地方の西端コタンタン半島にある港町である。
ノルマンディの海岸といえば、奇岩の景勝地エトルタや美しい港町オンフルール、そして映画『男と女』のドーヴィルなどが思い浮かぶ。シェルブールは、こうした観光客でにぎわうリゾートとは離れた場所にある古くからの軍港で、対岸の英国海岸との連絡船が発着し、貿易港、漁港としても栄えている。















ナポレオンの命令で、18世紀末から19世紀初めにかけて造られた港は、入り江の入り口に要塞島や大規模な防波堤を築き、その内湾の海底を掘って大型艦艇が停泊できるようにしたもの。今も港の主要部分は原子力潜水艦を持つ海軍基地として使われている。
日本では、映画『シェルブールの雨傘』の舞台としてのイメージが強いが、最近では近くのラ・アーグの施設で再処理された核燃料と、ガラス固化体に加工された核廃棄物が、日本に返還されるときの積出港ととしても知られている。

連合軍の上陸に備えドイツ軍が造った塹壕跡。

















終着駅。

パリのサン・ラザール駅を出た急行列車は、ノルマン公の城下町カンや、マチルド王妃のタピスリーで知られるバイユーを経て、シェルブール駅に到着する。カンやバイユーのすぐ北側には、連合軍の「地上最大の作戦」が行われた上陸海岸が広がっている。
パリからは3時間。終着のシェルブール駅は、映画『シェルブールの雨傘』で、従軍するギイがジュヌヴィエーヴに見送られてアルジェリアの戦場に向かうシーンが撮影されている。動き出す列車と、みるみる小さくなって行くジュヌヴィエーヴ。悲しいしい別離のシーンである。

今もちょっと切ないシーンが……。















今は新駅舎が建ち、ホームには流線型の列車が停まっているけれど、ホームそのものやレンガ造りの旧駅舎は、当時のままの姿で残されている。

旧駅舎。











新駅舎前には海軍の水兵とガールフレンドたち。


















ガラス張りの明るい新駅舎を出ると、すぐに潮の香りが漂う船だまりがある。。大小の漁船が停泊する岸壁に沿って北へ向かうと、ほどなく水門のある橋のたもとに出る。橋の向こうには無数のヨットが並ぶ波止場が続き、その先に大型船の港が広がっている。

漁船は早朝に戻って小休止中。

















波止場。

シェルブールを訪れたのは10月の後半、時おり冷たい雨がぱらつく日だった。
朝の漁を終え、網の始末をする人たちの周りにカモメの啼き声が響き、帆を下ろしたヨットのマストが、海から吹き付ける北風でぶつかり合ってコンコン音を立てている。
船を見下ろす船だまり沿いの岸壁は、映画冒頭のセピア色のタイトルバックを始め、ジュヌヴィエーヴとギイ、ジュヌヴィエーヴとカサール、失意のギイ、そしてマドレーヌとギイが、それぞれの想いを秘めながら歩くシーンで繰り返し登場している。

帆を下ろした無数のヨットが来年の夏を待っている。















その波止場の向こうに、ちょうど寄港中だったクイーン・メリー号が、巨大な姿を見せていた。シェルブールは古くからサザンプトン=ニューヨーク航路の寄港地で、タイタニック号も寄港していたという。

ナポレオン像とクイーン・メリー号。















小魚を探すカモメが群れ飛ぶ波止場には、魚介類のレストランが軒を並べている。店先にはどの店にも「ホタテ貝入荷」のビラが出ていた。ホタテだけでなく、ヒラメやボラ、エビなどの海の幸はもちろん、牛肉や羊肉、カマンベールやバターの生産地もすぐそこが、パリでは考えられない値段で食べられるのだ。

狙った魚をくわえたカモメがさっと舞い上がる。

















雨傘の店。

波止場の西側がシェルブールの中心街である。河岸にかかる橋にほど近いポール(港)通りに入ると、13番地に小さなパッチワークの店がある。ここが『シェルブールの雨傘』でジュヌヴィエーヴ母娘が営んでいた雨傘屋だったところだ。
ウインドウにはパッチワークのクッションや色とりどりの糸や道具類が並んでいるが、その上には"Les Parapluies de Cherbourg "(シェルブールの雨傘)という、映画そのままの古い看板が掲げられている。
店の前は人通りも少なくて、今しも可愛らしいジュヌヴィエーヴがドアから飛び出してきそう。石畳だった道はアスファルトに変っているけれど、石造りの店のたたずまいはまるきり変っていないのだ。

カトリーヌ・ドヌーヴがやたらに可愛かった。















この通りの北には、ジュヌヴィエーヴが宝石商のカサールとの結婚式千を挙げた聖トリニテ聖堂がある。もとは15世紀に建てられたゴシック聖堂だが、高さ26メートルの塔や西側正面は、19世紀に増改築されたネオ・ゴシック建築である。

聖トリニテ教会。

















歩行者専用道路の商店街グランド・リュ(大通り)は、シェルブールのメインストリート。にぎやかなこの通りから入るパサージュ・オーブリーは、出征が決まったギイがジュヌヴィエーヴと歩いた場所。小さな路地の奥には、木組みの見える古い英国風の建物がある。表通りの喧噪が嘘のようなエアポケットに画廊やブティックが並んでいる。

パサージュ・オーブリー。
















グランド・リュの南に続くポルト通りに、上階の窓から見下ろすように、カラフルな雨傘を並べた店がある。ここは『シェルブールの雨傘』にあやかって開業したという傘とアクセサリーの店。そんなに大勢の日本人客が来るとも思えないのに、ここのウインドウにはなぜか、「シェルブールの雨傘」という日本語が書かれている。

色とりどりの“シェルブールの雨傘”。

















ミレーの肖像画。

商店街を南へ抜けたドゴール将軍広場に華麗な劇場が面している。19世紀末に建てられたイタリア風の建築で、ジュヌヴィエーヴとギイがオペラ『カルメン』を見たところ。劇場正面の横にあるカフェも世紀末風の内装が当時のままの姿で残されている。

オペラ、バレエ、クラシックの音楽会が催される。















劇場と背中合わせの建物が、市立美術館になっている。この小さな地方美術館には、フラ・アンジェリコやフィリッポ・リッピ、ムリリョなど、17世紀から19世紀のびっくりするほど有名な画家たちの作品が展示されている。
中でも見逃せないのが、『晩鐘』や『種蒔く人』でおなじみのジャン・フランソワ・ミレーの作品群だ。1814年にシェルブールの西17キロの村グレヴィルで生まれたミレーは、修業のために19才でシェルブールにやって来て、ここの収蔵作品の模写に励んだという。
ここにはルーヴル美術館にある名作『施し』の別バージョンや、今まで見たことの無かった肖像画など多くのミレー作品があるが、若くして亡くなった彼の最初の奥さん「ポーリーヌ・オノ」を描いた2点の肖像画がとりわけ魅力的だった。











2点ともポーリーヌ。下は病気で死期が近いとき。




















美術館を出ると雨足が強くなっていた。

もちろん晴れの日もあるはずだけれど……。
















映画のラストシーンのガソリンスタンドを見つけることは出来なかったけれど、雨傘をさした人々が家路を急ぐ波止場の情景は、どこか幻想的で美しい。シェルブールの港には、やはり雨がよく似合うのだ……。(宏)

*写真はプログラム掲載のものよりも点数を減らし、一部は別カットを使っています。

2011年3月16日水曜日

地震お見舞い。プラム(かな?)の花。

プラムの木が花をつけたのでその報告を書いたら、日本の大地震のニュース。
こんなたいへんなとき、花便りでもないかと、出すのを控えていたのですが。
今、石神井に滞在中の (由)と、メールや電話で原発のことなどやり取りしている間に、庭やネコのようすなどを伝えたら、すべてが暗いことばかりだから、そういうふつうの話がうれしい、と言う。そこで……。、

三寒四温というより、五寒ニ温くらいの感じで、開きかけた花もはなじろんで引っ込んじゃってたけれど、ようやくマフラー、手袋なしでも歩けるようになりました。
で、庭にようやく咲いたのが、このレーヌ・クロードというプラムの木。

上の枝の真性プラムの蕾はまだ固いのです。

















ただしこれ、黄緑色のプラムの実をつける樹の本体ではなく、根元のほうから出て来た細い枝の花なのです。
同じ樹から出ているけれど、この花からは、薄い赤みのある小さなプラム(ウチではウスラウメと呼んでいる)が実る。たぶん接ぎ木をした元の樹のもので、先祖帰りというやつだと思う。

この花は風が吹くとすぐに散ってしまう。

















 で、数日間を置いていたら、今度は杏の花もちらほらほころび始めました。

罹災した大勢の皆さんに改めてお見舞い申し上げます。そして、原発の被害がせめて最小限で済んでほしいと……。(宏) 

2011年3月11日金曜日

はるのよるのよるとはる。

よるになると、晩ごはんを食べ終わったわが家の黒猫よるとはるが庭へ出ます。でも寒いよるはよるもはるもすぐに戻って来る。
ところが、ようやく少し温んだおとといのよる、臆病なはるはすぐに戻ったのに、よるはよるじゅう帰ってこなかった。翌日の朝も昼になっても。はるも心配そうに外を見ていた。
夕方近所で買い物してきたら、玄関の前でミャァ。

家に入ると三つ指ついてごめんなさい。















前にも同じようなことがあったけど;あのときはずいぶん汚れて苦労したようだったけど、今日はお腹もすいてない?

はい、ごめんなさい。















でも外は広くてよかったなぁ。

















隣で小学校の建設工事中なので、はるのほうはその音がコワくて昼間は外に出られない。

でもいい天気。出てみようかな。














ワぁ、気持ちいい〜。












え、もう家に入っちゃうの?






















……という、はるのよるのよると、はるのひのはる、でした。
大岡山の黒猫ガッちゃん、ジャンティイの黒猫盃ちゃんは、どうしてますか? (宏)

2011年3月7日月曜日

ヴィクトル・ユゴーと『レ・ミゼラブル』のパリ。

◉帝国劇場.東宝オペラ『レ・ミゼラブル』公演プログラムからの再録2007年6月

ヴォ−ジュ広場にあるヴィクトール・ユゴー記念館の階段に、映画『レ・ミゼラブル』の古いポスターが飾られている。小説『レ・ミゼラブル』は、1845年ごろ、この家の書斎で書きはじめられたという。
ジャン・ギャヴァン主演、1957年の映画ポスター。

















ヴィクト−ル・ユゴーは、1802年2月26日スイス国境に近いフランシュ・コンテ地方の都ブザンソンで生まれた。ドゥ川の流れに囲まれた旧市街の東端の小さな広場に、ヴィクト−ルの生家が残されている。広場には映画の発明者リュミエール兄弟の生家もある。
門の裏手に堅固な城壁で囲まれた要塞がそびえている。軍人だったヴィクト−ルの父レオポルド・ユゴーは、この城塞に駐屯していた。ユゴーは「自分にはフランシュ・コンテの血が流れている」と書いている。しかし、彼は生後数週間でマルセイユに転居し、その後一度もこの町を訪れたことがなかったという。
航海守護神像の立つトゥーロン旧港。
















『レ・ミゼラブル』は南仏トゥ−ロンで始まる。ユゴーはこの町に住んではいないが、ここは古くからフランス第一の軍港で、父の赴任地コルシカやエルベ島へ向かうときは、おそらくここから出航したのだろう。 各地で幼少期を過ごしたユゴーは、7才からは、亡命期間などを除いて、通算50数年をパリで暮らし、その間引っ越しを20回以上もくり返している。
コゼットを守りながら何か所も居所を変えたバルジャンは、たぶん作者ユゴーの分身なのだろう。

 1
サン・シュルピス教会とサン・ジェルマン・デ・プレ。
Eglise St.Sulpice et St.Germain des prés. 

サン・シュルピス教会。
















1822年秋、20才のヴィクトール・ユゴーは、サン・シュルピス教会で、幼なじみの許嫁アデール・フーシェと結婚している。
サン・シュルピス教会は12世紀の創建だけれど、形の違う2本の塔を持つ現在の姿になったのは18世紀の末である。暗い内部空間は、間口50m、奥行き113mという、パリで最も広い教会である。
教会前の広場に面したカフェの、マロニエの木陰のテラス席は、知的な雰囲気の、そして少々スノッブな人たちでいつも賑わっている。リュクサンブール庭園からサンジェルマン・デ・プレにかけてのこの辺りは、モードやインテリアの店が並び、画廊や骨董屋、書店も多く、文化人が好んで住む地区である。
そこから遠くないシェルシュ・ミディ通り44番地に、ユゴーが11才の時、父と疎遠になった母と住んた家がある。向いにはアデールの家があった。
その後両親の離婚調停のため、ユゴーと兄はコルディ寄宿舎に入れられ4年間を過ごす。ここはサン・ジェルマン・デ・プレ教会のすぐ南側で、今のケベック広場、カルチエの店のあたりだったらしい。
ボナパルト通り8番地。現在はチェコ文化センター。
















サン・ジェルマン・デ・プレ教会前からボナパルト通りをセーヌに向かうと、ボザール(国立高等美術学校)の手前18番地に、チェコ共和国の文化センターがある。ここは1818年、離婚後の母と兄弟が住んだ場所である。続いて移り住んだサン・シュルピス西のメジエール通りで母を亡くした兄弟は、同じ建物に従兄弟と部屋を借りるが、兄弟喧嘩で解消。ヴィクトールは従兄弟と共同で、ドラゴン通り30番地の屋根裏部屋を借りる。そして結婚。ユゴー夫妻は、シェルシュ・ミディ通りのアデールの実家に落ち着く。 


2 
プリュメ通りを探して。

rue Plumet.

 匿われていたコゼットに逢うため、マリウスがエポニーヌの手引きでやってきたのがプリュメ街の屋敷。
「プリュメ街」は15区に実在していた。有名なパストゥール研究所の裏手のプリュメ通りは、20世紀前半の建物と、最近のコンクリートのアパートが混在する平凡な道。200m余りの通りには、小さなスーパーといかにも地元風のカフェが2軒。ほとんど人気のない、やや場末っぽいのどかな通りで、バルジャンとコゼットが隠れ住んだ屋敷らしき建物は見当たらない。
パリの街路の歴史事典で調べてみると、この通りが開通して、プリュメ通りと命名されたのは1878年のことで、『レ・ミゼラブル』に書かれている1832年にはまだ存在していなかったのである。
7区のウディノ通り。(旧名プリュメ通り)















そして、7区にある、今はウディノ通りの旧名がプリュメ通りで、どうやらこの通りこそがユゴーの書いた「プリュメ街」だったらしい。このウディノ通りは、サン.ジェルマンの西、ボン・マルシェ百貨店の裏手、バビロン通りとセーヴル通りの間の閑静な道である。17〜18世紀の建物も多く、マリウスが乗り越えたような門構えの屋敷も残っている。ただ“らしい”と書いたのは、この元プリュメ通りが今の名に変わったのが1815年のことで、『レ・ミゼラブル』のころのパリに、プリュメ街は存在しなかったからだ。
しかしユゴーはこの物語を書いたとき、18世紀のパリ地図を参考にしていたという。プリュメ街のモデルはここだと言ってもいいようである。
マレ地区のアルシーヴ通り40番地。

















又、右岸4区のマレ地区のアルシーヴ通り40番地の16世紀の館は、政商ジャック・クールの妹の屋敷だったというが、ここもバルジャンとコゼットの隠れ家のひとつである。今は幼稚園に使われている。

3
レ・アールに築かれたバリケード。

Les Halles ; rue Rambuteau, rue Mondétour.

レ・アール地区は、今のパリの繁華街の中でもとりわけ賑やかな場所だ。中心のフォーラムは、メトロと郊外線 RER の8つの路線が交わる駅の上に造られた地下建築で、掘り下げられた中庭を囲むガラス張り階段状のショッピングセンターと、シネマ.コンプレックス、プールなどを収めた複合施設である。
ここは中世以来、パリの中央市場があったところで、庶民的で雑然とした街だった。郊外線でやってくる多様な肌色の若者たちで賑わうフォーラムの周辺には、今もさまざまな飲食店、ブテイックが集まっている。サンテュスターシュ教会側には、中央市場時代から続く厨房用品店や老舗の食材店が残り、一方、風俗店が並ぶサン・ドニ通りには、昼間から超ミニスカートのオネエサンが立っている。
モンデトゥール通り。突き当たりがランビュトー通り。
















『レ・ミゼラブル』でマリウスたちが闘ったバリケードは、ちょうどフォーラムの北側に接するランビュトー通りに築かれていた。
1932年5月6日、7日、共和派の人々が、現在のレ・アールからポンピドゥ・センターのあたりにかけた地域に、いくつものバリケードを築いて闘ったのは史実である。その中で、北はシーニュ通り、東はサン・ドニ通りまでを占めていたこのマリウスたちのバリケードは、ランビュト−通りの当時の名から、「シャンブルリ−のバリケード」と呼ばれている。
ランビュト−通りとモンデトゥール通りとの角が、弾薬を集めに飛び出したガヴロシュが倒れた場所だったという。実際にガヴロシュのモデルとなった少年たちがいたようで、“ガヴロシュ”が撃たれたのは、ポンピドゥ・センター前のサンマルタン通りとオーブリ・ル・ブシェ通りの角だという別説もある。

4
アルマ橋の下水道。

 Les Fgouts. Pont de l'Alma.

アルマ橋の左岸のたもとに、下水道見学の入り口がある。マリウスを担いで下水道へ逃れたバルジャンが地上へ出たのはこのあたりだった。
今のパリの下水道は、総延長2100kmにも及ぶが、ここで見学できるのは、直径20m余りの幹線渠に設けられた200mほどの見学路。子ども連れの見学者が、パリの下水道の歴史展示と、土砂を除去する装置や逆流を防ぐ巨大な黒い球などを楽しそうに眺めている。
音をたてて流れる黒い水路と、立ち入リ禁止の柵の向こうに果てしなく続く暗いトンネル、そして微かな下水臭が、バルジャンの世界を思い起こさせる。
市内で出る廃水と路上のゴミを下水にすべて流し込み、下流の処理場でセーヌに合流させる近代的なパリの下水道システムは、第2帝政によるパリ大改造で、水道局技師ベルグランによって造られたもの。
上下水道、電気や電話ケーブル、ガス管も。
















『レ・ミゼラブル』でユゴーは、下水道について詳しく記している。しかし反皇帝派のユゴーにとっては、下水も批判の対象で、「ふん尿は大地を豊かにする黄金なのに、下水へ流すとは資源のムダだ」といい、「……今の下水はすっかり健全な公の場に変わり、“腸”は“ギャルリ”に、“穴”は“マンホール”と呼ばれるようになった……」と書いている。
NYの自由の女神の持つかがり火の原寸コピーです。














明るい地上に出てアルマ橋を渡ると、右岸のたもとに、黄金のウンコならぬ『自由の炎』の碑がある。この真下の高速道路は、ダイアナ妃の事故現場だった。
橋のたもとから北東へ延びるモンテーニュ大通りは、有名ブランド店が並ぶ道。そして隣のジャン・グ−ジョン通り9番地に、ユゴーが3年間暮らした家があった。1832年、彼はヴォ−ジュ広場に引っ越す。ちょうどバリケードが築かれた年の秋である。

5
ノートル・ダム橋。

Pont Notre-Damme.

ノートル・ダム橋は、セーヌの右岸とシテ島を結ぶ4本の橋のひとつ。現在の橋は1902年に、船を通りやすくするため、それまでのアーチが連なる石造りの橋を、ひとつの鉄のアーチに改造したものである。
屋台の古本屋ブキニストが並ぶ右岸ジェスヴル河岸には、市立劇場と市の官庁があり、シテ島のコルス河岸には、植木と草花、それに小鳥を売る市場と、市立病院オテル・デュ−のいかめしい建物がある。
市場の向こうには警視庁があり、病院の向こうにはノートル・ダム前の広場があって、いつも世界中からやって来た観光客であふれている。
ノートルダム橋。右手に大聖堂が見える。















やっと追い詰めたバルジャンを見逃してやったジャベールが、1932年6月7日午前1時過ぎ、身を投げたのは、ノートル・ダム橋の右岸寄り下流側だった。
改造前のこの橋の下のセーヌでは、船の事故がやたらに多発し、それに、夜のこの橋の周辺の河岸に人けがないせいか、実際にここから投身する人も多かったらしく、ノートル・ダム橋は「悪魔の橋」と呼ばれていたという。
この橋に限ったことではないが、橋の欄干には、「溺れている人を発見したら……」と、水上警察と救急船の電話番号を記したプレートが貼ってある。
ジャベールが最後に見た(夜更けだが)はずの下流には、シャンジュ橋の後ろに、マリ・アントワネットが投獄された旧王宮コンシェルジュリの円塔のシルエットが墨絵のように浮かんでいる。
右岸沿いの水辺は自動車専用道路になっていて、今ここで飛び下りると別の死に方になってしまう。この道路は夏のヴァカンス中、水辺の避暑地「パリ・プラ−ジュ」の名で開放され、市民に親しまれている。

6 
サン・ポール=サン・ルイ教会、そして……。

Eglise St.Paul=Saint Louis. rue Filles du Calvaire.

マレ地区は、ナポレオン3世によるパリ改造の影響をほとんど受けずに、16〜18世紀の貴族たちの邸宅が数多く残る歴史街区である。
貴族の館のいくつかは、カルナヴァレ博物館やピカソ美術館などのミュゼに生まれ変わり、古い通りには流行のモードやアクセサリーのブティックが並んで、マレはパリ有数のお洒落な街となってい
マレの中心街フラン・ブルジョワ通りを、カルナヴァレ博物館の角から南に向かうと、静かなセヴィニェ通りの11番地、通りからは見えない中庭の奥に、かつて牢獄があった。テナルディエがジャベールに投獄されたという場所である。
セヴィニェ通り11番地。この奥に牢獄があった。


















セヴィニェ通りを抜け、サンタントワーヌ通りに出ると、正面にサン・ポール=サン・ルイ教会がある。内部はドーム屋根からの光が静寂な空間に注いでいる。このドームは正面からは見えないが、教会南側のに回り込むと、その優雅な姿を眺めることができる。
右が11番地。向こうにサン・ポール=サン・ルイ教会。

















1843年の2月、この教会でユゴーの娘レオポルディーヌの結婚式が行われた。ところがこの夫婦は、結婚式のわずか7か月後に、ノルマンディーの村のセーヌ河で溺死してしまう。
そしてこの教会はまた、コゼットとマリウスが1833年2月に結婚式を挙げた場所でもあるのだ。 
結婚したコゼットとマリウスが暮らしたとされるのが、マレ地区でも東北のはずれのフィーユ・デュ・カルヴェール通り6番地の家だ。古い建物が多いマレだけれど、この辺りは洋服の卸し問屋が集まる庶民的な地域である。ここからグラン・ブールヴァールに出ると、レピュブリク(共和国)広場に立つ「共和国の女神」の大きな立像が見える。

7
ヴォ−ジュ広場、ユゴー記念館。

Maison Victor Hugo, Place des Vosges.

貴族の館が多く残るマレ地区でも、ヴォ−ジュ広場は特別な存在である。17世紀初めにアンリ4世の命令で造られた、この均整の取れた広場は、かつてロワイヤル(国王)広場と呼ばれていた。
1辺が150mほどの正方形の広場を、黒い急勾配の屋根を載せた、レンガ色と明るいベージュの統一された建物が整然と囲んでいる。建物1階の中庭に面した側には、画廊や骨董店、レストランなどがある幅広いアーケードの回廊が巡っている。
ヴォージュ広場。
















この回廊の南東の角、3色旗が掲げられた小学校の棟の隣の、6番地のロアン・ゲメネ館が、1832年秋からユゴー夫妻と4人の子どもたちが住んでいた家である。1848年秋に、火事で引っ越すまでの16年間、ユゴーとしては異例の長期間の住居である。

この家は1907年以来、「ユゴー記念館(メゾン・ド・ヴィクトール・ユゴー)」として公開されている。ユゴー家の住居だった3階の各室が、ユゴーの足跡をたどる展示室になっていて、ユーゴと家族の肖像画や、自筆原稿、写真、数々の遺品が並んでいる。
再現された“中国の間”。

















彼の書斎や、1833年からの後半生を共にした女優ジュリエット・ドルーエのためにユゴーがデザインした、ガンジー島の家の中世風の食堂、取り壊されたジャン・グ−ジョン通りの家の「中国の間」などが再現されている。
文豪で政治家のユゴーは、絵も驚くほど上手だった。2階では、象徴主義風でややシュールな彼の絵やデッサンを、テーマを変えて特別展示している。板張りの広いサロンの大きな窓からは、芝生の広場の木立の下でくつろぐ人々の姿が見下ろせる。遠く子どもたちの歓声響いて来る。

8                        
ヴィクトール・ユゴー広場とユゴー最後の家。
Place Victor Hugo, Avenue Victor Hugo.

凱旋門のあるエトワール広場からは、12本の道路が放射状に伸びている。そのひとつヴィクトール・ユゴー大通りは、ブーローニュの森近くまで、まっすぐに伸びた、全長1765mの並木道である。
この通りの中ほど、中央に大きな噴水のある円形の広場が、ヴィクトール・ユゴー広場。メトロのヴィクトール・ユゴー駅はここにある。
メトロ2号線ヴィクトル・ユゴー駅。











 



パリいちばんの高級住宅地とされる16区は、19世紀の経済発展で財をなした銀行家や新興貴族たちの住宅地として発展したところである。
広場に面したカフェ「ル・ヴィクトール・ユゴー」のテラスも都心部とは違い、裕福そうな老夫婦や、スキのないお洒落をしたマダムたちが、独特の山の手アクセントでお喋りをしている。
広場の西124番地が、ユーゴ最後の家があった場所。1870年に第2帝政が崩壊し、亡命先の英領ガンジー島から戻ったユゴーは、モンマルトルのふもと9区のピガールやクリシー付近などを転々としたあげく、1878年にここに落ち着いたのだった。
この通りは、ユーゴ生前の1885年に広場から西側が彼の名に変わり、死んだ翌年に、残りの凱旋門寄り部分も加えヴィクトール・ユゴー大通りとなった。
ヴィクトル・ユゴー大通り124番地。
















 
ユゴーの顔の浮き彫りがある今の建物は、1907年に建て替えられロダンたもの。扉の横の史跡掲示板には、「1881年、ユゴー80才の誕生日には、6000人の労働者や生徒たちが行進して祝った」と記されている。
ロダン『ヴィクトル・ユゴーと詩の女神ミューズ』。
















ヴィクトル・ユゴー大通りの西端、アンリ・マルタン大通りとの角の緑地に、ロダンが制作したユゴー記念碑がある。ミューズを保護するようなユーゴの姿は、コゼットを守るバルジャンの姿にも重なって見える。


9
パンテオン。

Pantheon.

5区カルチェ・ラタンの丘に建つパンテオンの地下霊廟に、ヴィクトール・ユゴーの墓がある。
ルイ17世の命令で1758年に着工、バスティーユ監獄襲撃が行われた革命の年1789年に完成したこの巨大な建物は、フランスの偉人を祀る霊廟となった。
パンテオン。















堂内中央の高い円天井の下の、とてつもなく広い空間を、物理学車フーコーが実験した振り子の球が、ゆっくりと動いて、地球の自転を証明している。 
奥の階段を下りた薄暗い地下の小部屋に、ゾラ、ヴォルテール。ルソーらが仲良く並んでいる。
パンテオン前にあるパリ第1・3・5大学の裏の坂道が、ローマ時代から続くパリでも最も古い、サン・ジャック通りである。大学の北隣は、ヴィクトールと兄ウージェーヌ兄弟が、サン・ジェルマン・デ・プレの寄宿舎から通った学校ルイ・ルグラン。通りの西にあるのがパリ第1・3大学ソルボンヌの校舎である。
1850年代、ソルボンヌの横をサン・ミシェル大通りに出たところに「カフェミュザン」があった。ここは共和派の若者たちの「ABC友の会」の秘密集会場だった。時代はずれるが、『レ・ミゼラブル』の「ABCカフェ」のモデルであろう。
フュイヤンティーヌ通り8番地。















サン・ジャック通りの250番地の建物は、1809年ヴィクトール7才のとき、父の任地イタリアからパリに出た母と兄弟が数カ月住んだところ。一家は続いて、ここから南へ2つ目の道、フュイヤンティーヌ通り8番地にあった、修道院の広い庭に面した家に落ち着いたという。この家は建て替えられてしまったが、奥に修道院の庭が残されているという。
カルチェ・ラタンは、パリのユゴーの出発点であり、終着点ともなった。 (宏)

*なお、写真はプログラムとは別カットで、点数も減らしています。